(つづき)
再々度、Abraham, Gary A., 1983, "The Protestant Ethic and the Spirit of Utilitarianism: The Case of EST," Theory and Society 12(6): 739-773. について。
この論文は、ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(以下、『倫理』)の問い直しの試みである。
タイトルで一目瞭然ですね。
「衛生功利主義」(hygienic utilitarianism)という同論文のキーコンセプトも、ヴェーバーの議論が踏まえられている。
タイトルで一目瞭然ですね。
「衛生功利主義」(hygienic utilitarianism)という同論文のキーコンセプトも、ヴェーバーの議論が踏まえられている。
とはいえ『倫理』を読んだことのある人なら気づくように、ヴェーバーはそのことについて熱心に論じているわけではない。
いや、ほとんど論じていないといっていい。
注に出てくるにすぎない。
にもかかわらずエイブラハムはこの点に注目し、それをヴェーバーの研究全体に照らしても重要な問題の1つだと見ている。
ヴェーバーは注で何を語ったか?
「性的交渉」への2つの態度についてである。
一方で、性的交渉は、原罪と結びつく「恥ずべきこと」とされる。
子供をもうけるにしても節度をもって臨むべきだ、と。
だが他方で、性的交渉は、「衛生上」「健康上」の理由から、制限された範囲内で必要なこととも目される。
それで労働が捗るならばそれにこしたことはない。
いずれの場合も、性的交渉はひとつの「手段」にすぎない。
「性的交渉」への2つの態度についてである。
一方で、性的交渉は、原罪と結びつく「恥ずべきこと」とされる。
子供をもうけるにしても節度をもって臨むべきだ、と。
だが他方で、性的交渉は、「衛生上」「健康上」の理由から、制限された範囲内で必要なこととも目される。
それで労働が捗るならばそれにこしたことはない。
いずれの場合も、性的交渉はひとつの「手段」にすぎない。
そこにあるのは、絶対的な目的のために必要なので(しぶしぶ)それを行うのだという合理的な解釈である。
ヴェーバーはいう。
ヴェーバーはいう。
ピュウリタンの性的合理主義者と衛生上の性的合理主義者とはいちじるしく異なった道を辿ることになるが、この点についてだけは「お互いすぐさま了解しあえる」のだ。 (Weber 1920=1989: 303)
グレートヒェンを売春婦としてとりあつかうこと、人間的激情の強力な支配を健康のための性的交渉と同一視すること――これは2つともピュウリタニズムの立場と完全に一致している。(Weber 1920=1989: 303,強調訳文)エイブラハムも、ヴェーバーにしたがって、そうした(フランクリンに象徴的に見られる)衛生的な態度に、プロテスタンティズムの影響を見る。
プロテスタント的な自己コントロールの仕方を端緒とする、個人主義的な「衛生」功利主義は、その宗教的な動機が減衰してはじめて、独立したエートスとなる。(Abraham 1983: 754)しかし、疑問がひとつある。
なぜそれは「功利主義」と呼ばれるのか?
功利主義とは通常、快楽や幸福をめぐる思想ではなかったか?
禁欲思想に特徴づけられるプロテスタンティズムと、どんなつながりがあるというのか?
エイブラハムはこう述べている。
自身が、そしてヴェーバーが、問題にしている(衛生)功利主義は、いわゆる古典的な社会功利主義とは性質を異にしたものだ、と。
この点は、前々回でも触れた。
両者はどこが違うのか?
(これがじつはあまりよくわからなかったのですが...)ひとまずいえることは、個人主義と併置されていることに現われているように、衛生功利主義は、古典的な功利主義よりもずっと個人的な利害(快楽と苦痛)に準拠する思想・態度だということだ。
では、どの点でそれがプロテスタンティズムと結びつくといえるのか?
エイブラハムによれば、それはある種の思考法においてである。
すなわち、
... 衛生功利主義は、キリスト教によって確立された秩序体系の明らかに二元論的な概念の歴史進化における最新の段階のひとつであることがわかる。(Abraham 1983: 756)
ここでエイブラハムが「二元論的な概念」としていおうとしていることは、噛み砕けば、「世界」と「宗教」の捉え方のことである。
人びとの苦しみは、この「世界」に起因する。
「宗教」は、既存の世界を拒否し、苦しみの軽減を図る。
ヴェーバーはこの「拒否の合理的な発展」として「宗教」を捉えた。
プロテスタンティズムの果たした役割は、そうした苦しみへの対処法の合理化という点において際立っている。
プロテスタンティズムは、エイブラハムの表現を借りていえば、「もっとも個人主義的な救済方法のラディカル化」であった(Abraham 1983: 757)。
これが、この思考法が、衛生功利主義として受け継がれる。
宗教は新しい世界像を示し、いまある苦しみの解消を約束する。
それは一種の観念的・心理的な操作である。
est の技法も突き詰めればこの操作に依っている。
今回はここまで。
次回、これまでの話(part1から今回まで)をまとめます。
上手にできるかわかりませんが...。
それでこの論文については終わります。
つづく。