一時期よりも、「心理学化」「心理主義化」の語を目にしなくなったような気がする。
日本語では。
それはもちろん心理学化の嵐が過ぎ去ったからではなくて、単に用語としてキャッチーじゃなくなっただけだろう。
それを論じる意義はまだ失われていない、どころか、むしろ心理学化は、ますます私たちの生に入り込み、もはや誰もその存在に改めて注目しないほどに私たちの生を規定している。
今回は、そんな内容の論文、Ole Jacob Madsen & Svend Brinkmann (2010) の "The Disappearance of psychologisation?" について。
こちらで読めます(⇒ PDF)。
ちなみに、日本社会学会の学会誌『社会学評論』が2011年3月の号(第61号4巻)で「『心理学化』社会における社会と心理」を特集テーマとしている。
この号の渋谷望さんの論文、おもしろいです。
今回の論文の著者 Madsen と Brinkmann はいう。
現代の西洋社会は徹頭徹尾、心理学化された社会であると。
現代社会において「心理学は、社会問題の解決策としてよりも社会問題のひとつの兆候として差し出される」(Madsen & Brinkmann 2010: 183)。
「心理学の効果は新たな次元へと移行し、それ自体を検出したり問題化したり批判したりするのを一層困難にさせた」(ibid.: 186)。
「心理学化という用語は、ほとんどその意味を失いつつある。もはや私たちは心理学的カテゴリーなしに自分自身、社会、政治を想像することが不可能だからだ」(ibid.: 187)。
うん、そうなのかもしれない。
けど、私たちは、およそ「~~化」と呼ばれるような理論に接するとき(とくにそれが喫緊の問題であると喧伝される場合)、どうしても次のような疑問をもたずにはいられない。
すなわち [A]「そんなに進行してますかね?」や [B]「いまにはじまったことですかね?」という疑問である。
[A]
ひとつめの疑問は、こういうことだ。
たしかに心理学化はしている。
トラウマという言葉の浸透や自己啓発ブームが端的にそれを象徴している。
だが今回の論文のように、「心理学的カテゴリーなしには自分たち自身、社会、政治を想像することは不可能」であり、それを「検出したり問題化したり批判したりするのが困難」というべきほど、事態は進行しているといえるのだろうか?
あるいはこういう疑問を投げかけると、こんな反論が返ってきそうな気もする。
そのように事態が急を要してないと思わせるまさにそれこそが心理学化の結果なのだよ、と。
このような陰謀論めいた切り返しをさせないためには、結局のところ、個別事例に説得力があるかどうかが鍵だと思う。
[B]
ふたつめの疑問は、こういうことだ。
たしかに心理学的知識や技法は日常生活に浸透しているだろう。
だがそれは、なにも現代に限った話じゃないのではないか?
前々回の投稿、前回の投稿で記したように、それに類する現象はすでに20世紀初頭のアメリカに見られる。
であるなら、かつての心理療法の流行と現代の心理学化の違い――心理学「化」というほどの違い――は、どの辺りにあるのだろうか?
その違いがわかれば、それこそがまさに現代の心理学化の要諦といえるはずだ。
以下では、こうした疑問にも目くばせしながら論文の中身について書いていきたい。
だけど、ここからだと長くなりすぎしてしまうので、つづきは次回に。