2014/03/02

古いセラピーと新しいセラピー

 
 唐突すぎるが、まえに「est」について、こんなことを書いた
 
 話はやや逸れるが、この種の「セミナー」は、一般にヒューマン・ポテンシャル運動(そのものか、その派生)として捉えられる。
 これは、別に間違っていない。
 間違っていないが、しかし、個人的には釈然としない気持ちもないではない。
 
 両者のあいだには差異があり、その差異を追究することが(少なくとも自分の研究にとって)重要である気が前から強くしているからだ。

 でも、これについてはまた今度。

 
 (もとのエントリーはこちら ⇒ プロテスタンティズムの倫理と功利主義の精神 part3
 
 最近Peter Marinのエッセイ(↓)を読んでいたら、このことを考えるきっかけになってくれそうなことが書いてあった。
 だから今回はそれについてちょっと書いてみたい。
 
 Marin, Peter, 1975, "The New Narcissism," Harper's Magazine (Oct., 1975), Vol. 251(1505): 45-56.
 
 Marinの小論の意図は、とてもはっきりしている。
 estに象徴される当時流行のセラピー文化の独善的・現状追認的な姿勢を糾弾することである。
 彼は、「ソフト・ファシズム」という言葉まで使って強く非難している。
 
 注目したいのは、Marinがestと「古いセラピー」とを対比し、両者の異同について述べている箇所である。
 彼のいう「古いセラピー」とは、「ゲシュタルト・セラピー、アブラハム・マズローの自己実現、ロジャーズ派のエンカウンター・グループ」のことである。
 (マズローの自己実現をセラピーと呼んでいいのかはアレですが・・・)
 
 とくに明示されているわけではないが、Marinは旧セラピーと新セラピーはどちらもヒューマン・ポテンシャル運動と呼べる、と考えているように思う。
 ごくノーマルな理解だし。
 そして、おそらく、旧セラピーの方が当該運動の本体に近いと考えてもいる(私も同意見である)。
 このことは、たとえば、「それ[est]は、多くの点で、過去10年間の全ヒューマン・ポテンシャル運動の論理的な延長線上にある」(Marin 1975: 47)と述べている点にも現われている。
  
 たとえば、これと異なる見解をもつと思われるのが、George D. Chryssidesである。
 Chryssidesの『Exploring New Religions (Issues in Contemporary Religion)』(1999年)という本には、まさに「The Human Potential Movement」と題された章(第8章)がある。
  
 Chryssidesはその章で「サイエントロジー」「超越瞑想」「est」の3つを引き合いに出してヒューマン・ポテンシャル運動について考察している。
 これは明らかに、いましがた述べたようなヒューマン・ポテンシャル運動の見方と異なっている。
 彼は、Marinのいう旧セラピーに――というかエサレン研究所界隈に――ほとんど関心を払っていない。
 
 Chryssidesの文章の目的は、サイエントロジー」「超越瞑想」「est」という3つの団体、およびそれらの実践が果たして“宗教(的)”なのかどうかを検証することにある。
 こラインナップでそれを試みようとする意図・意義は理解できる。
 
 だけど、(1) サイエントロジーと超越瞑想――とりわけ前者――がヒューマン・ポテンシャル運動に含まれるのかどうかは議論の余地があるだろうし、仮に含まれるとしても、(2) 上記の3つをあたかもヒューマン・ポテンシャル運動の代表事例のように扱うことは、多いに疑問がある。
 
 ただ、Chryssidesを擁護するなら、彼は、(Heelasの「self-religions」ではなく)Tiptonの「ヒューマン・ポテンシャル運動」の用語をここでは採用する、という内容のことをいっているので、もしかしたら上記のラインナップはTiptonの定義にもとづくものかもしれない。
 (彼の参照するTiptonの文献が手元にないので確かめられず・・・)
 
 ま、Chryssidesへの疑問は措いておこう。
 いずれにせよ気になっているのは、estを転換点としてヒューマン・ポテンシャル運動に何らかの変化を見出せるのか、見出せるとすればそれはどのような点においてか、ということである。
 
 Marinはestのどこに新しさを見たか?
 端的にいえば、それは歴史や道徳への態度である。
古いセラピーは道徳的・歴史的な事柄をたんに無視するだけなのだが、新しいセラピーはそれらを壊したり置き換えたりする。新しいセラピーは、自己を護ったり変化させたりする方法であるばかりか、他者の必要性、および他者に対するその人自身の責任の必要性を判断する方法、つまりは歴史を定義し、道徳性を決定する1つの方法になっている。(Marin 1975: 47)
 つまり新セラピーの思想は、歴史や道徳、もっと抽象化すれば大いなる〈他者〉に、本来負うべきはずのあらゆる責任の放棄を促すものである、とMarinはいう。
 
 Marinによれば、セミナー経験者の一部には、次のような考えを述べる(ようになった?)人もいるという。
 差別や貧困で苦しむ人は、じつは心の奥底では、そうして苦しむことを望んでいたのであり、彼・彼女の現在の窮状は彼・彼女の望んだ結果なのだ、と。
 (なぜなら意志の力は巨大だから――これは現代の自己啓発本にもよく見られるロジックだ。)
 だから、差別や貧困問題に何ら責任や罪の意識を感じる必要などないのだ、と。
 
 新しいセラピーの教義は、こうしたロジックによって、差別や貧困などの(国際)社会的な問題を、自分とはまったく関係のないものとして見なかったことにするよういざなう。
 いや、たんに目を逸らすだけならまだしも、差別や貧困の責任があたかも当事者だけにあるかのように言い放ち、傷口に塩を塗りつけているとすらいえる。
 
 他方、かつてのセラピーはそんなことはなかったとMarinはいう
 それらに明確な“害”はなく、あったとしても許される程度だった、と。 
 
 旧セラピーは問題を認識しても、とくに何もしない。
 新セラピーは問題を認識したら、それを問題ではないと考え直すよう教える。
 これが、Marinの呈示する旧のセラピーの違いである。
 
 この対比はどうだろうか。
 うーむ・・・。
 首をかしげるほどではないが、肯けもしない、そんな感じでしょうか。
 
 そんで、ここからさらに話を展開させて考えを深めていこうと思ってたのだけど、ちょっとどう展開させていったらいいかわからなくなってしまった。
 まあ、Marinにしても、この対比の議論に言葉を尽しているわけではないし、そもそもエッセイの目的が対比にあるわけではないので、あくまでそういう議論として受け止めなければならない。
 
 でも、これから考えるヒントにはなりそうだ。
 (なんという終わり方)
 
 
 

2014/01/24

「魂の救済」運動

 
 リアルセルフ論に飽きたので(!!)、今回は、ロイ・ウォリスのテキスト(↓)のメモです。
 Wallis, Roy, 1979, "Varieties of psychosalvation," New Society, 50: 649-651. 
 
 ただのメモ。
 
 このテキストは、エスト、サイエントロジー、シナノン、超越瞑想など自己啓発系セラピーのグループに共通する特徴を考察したものである。
 ウォリスはそれらを魂の救済」(psychosalvation)運動と総称する
 それは、「25年前かそこらに出現した、個人心理学的ないしサイコスピリチュアルな成長や『自己実現』のための理論・テクニック・環境を提供する、宗教的・世俗的な運動および集団」(Wallis 1979: 649)と一般化されている。
 
 そうした運動・集団に共通する特徴はなにか。
 ウォリスは次の諸点を挙げる(以下のように項目を立ててはいないが)
 
 a) 完全になり得る」(perfectible)という考え方
 ――私たちは潜在能力を秘めており、「魂の救済」運動を通じて、それを十全に(そして無限に)発揮することができる。
 b) 個人主義・自己責任
 ――能力発揮のためには、社会ではなく個人が変わらなければならない。また翻って、現在の困難の原因は社会ではなく個人にある。
 c) 世俗的な価値の追究
 ――「魂の救済」運動は、精神的な成長だけでなく現世的な利得をもたらす(この点で、「魂の救済」運動は世俗の価値・規範を概ね受け入れている)。
 d) 現在の強調
 ――実際の感情や経験を重要視する。
 e) 個人的な問題への関心の低さ(=精神分析との相違点・その1)
 ――「魂の救済」運動はいくつかの点で精神分析に似ている。が、そのひと個人(の生い立ちや生育環境)の問題ではなく、その問題をどう捉えるかに関心を払う点で異なっている。
 f) インスタントであること(=精神分析との相違点・その2)
 ――また、精神分析よりもはるかにインスタントな性格をもつ。
 g) 民主的性格
 ――トレーナー・セラピスト・リーダーとメンバーの階層的な差は小さい。トレーナーやリーダーはかつての参加者である場合が多く、そうなるための教育的ハードルも(精神分析に比べれば)低い。
 h) 商品化
 ――運動のもつアイディア、スキル、テクニックは販売可能なものとしてパッケージ化されている。
 
 また、ウォリスは魂の救済」運動の教義やエートスの核となるアイディアとして、以下の4点を指摘する。
 1) 達成――物心両面にわたる成功の約束
 2) 順応――過去でも未来でもなく現在・現実へのフォーカス(エストに顕著)
 3) 解放――社会的な拘束からの解放、「本当の自分」の表出(エンカウンターに顕著)
 4) 親密さ――コミュニティの形成

 なぜこの4点が強調されるかといえば、ウォリスによれば、それは、それらがまさに「先進資本主義社会」の性質を反映しているからである。

 より正確には、それらを犠牲に成り立つ社会こそが「先進資本主義社会」であると。
 
 「先進資本主義社会」は、「成功」の責を個人の能力に負わせるがゆえに、個人にさまざまな犠牲を強いる。
 現在の欲望を犠牲にしなければならないし、「本当の自分」を押し殺す必要があるし、共同体的・地縁的な紐帯は足枷と見なされる。
  
 伝統的には宗教がそうした側面をカバーする役割を担ってきたが、もはや機能不全に陥っている。
 それゆえ、それらを提供する(と謳う)「魂の救済」運動に大きな需要が生まれるのだとウォリスは分析する。
 
 以上、メモ終わり。
 
 ウォリスが「魂の救済」運動と呼ぶような運動・集団についてはずっと気になっている。
 それらを共通性において見ようという試みは良いと思う。
 ウォリスの指摘した特徴を、今度は新宗教運動やニューエイジ運動と比較し、「魂の救済」運動の特殊性を(あれば)探ってみたい気もする。
 
 ただ、その共通のラベルを、なぜ他ならぬ「psychosalvation」という語にしたのかは特別ふれられておらず、それが最後まで疑問だった。