2013/04/30

プロテスタンティズムの倫理と功利主義の精神 part5/5


 (つづき)

 Abraham, Gary A., 1983, "The Protestant Ethic and the Spirit of Utilitarianism: The Case of EST," Theory and Society 12(6): 739-773. について。 
 
 ラスト。
  
 私たちは、ときに、不幸や災難に見舞われる。
 突如として、何の断りもなしに、それはやってくる。
 
 まったく不条理なことだ。

 私たちは、この不条理をそのままにしておくことに慣れていない。
 私たちは、この世界が、一貫性のあるルールに――たとえば善人が必ず報われるというようなルールに――よって運行されていると信じたがる傾向にある。
 受難や厄災に(合理的な)理由があってほしい、と。
 
 「フリーメイソンが裏で世界を操っている!」
 そう糾弾する彼らもまた、実はそれを願っているのかもしれない。

 宗教は、いわば、この世の不条理性を縮減するひとつの方策といえよう。
 それは誰にだって生じうる苦悩への、ひとつの「対応」である。
 
 衛生功利主義もまた、そうした「対応」の在り方である。
 そしてそれは、プロテスタンティズムから受け継がれたものだ、というのがこの論文におけるエイブラハムの中心的な主張だ。
苦悩への1つの可能な対応として衛生功利主義、ないし衛生的な倫理は、そのような[引用者注:合理的な]一貫した世界像にもとづいている。それは長い宗教的な伝統に乗っかっており、その伝統それ自体が、そうした対応の合理化の連続として見ることができる。(Abraham 1983: 759)
 est はいわば、そうした「対応」の最新版の象徴である

 論文の結論部で、キーワードのひとつとなっているのが「rationale」である。
 訳しにくいがここでは「論理枠組み」としよう。
 (ちなみに direction という語も結論部にたくさん出てきて、これもなんかピンときにくい)

 エイブラハムはいう。

 「私たちが衛生功利主義のイデオロギーを認識しうる指標とは、その特殊な論理枠組みである」と(Abraham 1983: 759, 強調原文)。

 その論理枠組みのどこが特殊なのか?

 それは、その、精神や主観への還元とでもいうべき性質が、である。
 
 衛生功利主義において、苦悩の原因は、「世界」ではなく、もっぱら「精神」に還元させられる。
 もしあなたが悩み苦しんでいるとしたら、それは精神が病んでいるからであって、世界が病んでいるからではない。
  
 これは、コリン・キャンベルが「感情コントロール」としていおうとしていることと近いように思う(前回「感情コントロールと近代的なヘドニズム」参照)。
 もちろんキャンベルの議論の軸足は「快楽」に置かれている。
 「苦悩」に、ではない。
 だが、いかに「感情」を統治するかの問題にフォーカスし、その“起源”を「プロテスタンティズム」に求めている点で、両者の議論には共通性があるように思う。  

 est を
宗教的伝統と結びつけること。
 この目論見は、エイブラハムの立論それ自体にとって重要である。
 なぜか?

 est などの自己啓発系のグループや新宗教運動は、それまで何人かの論者によって、「ポスト産業社会」の現象として論じられてきた。

 この見解は1983年以降も示されてきたし、妥当性もあると思う。
 エイブラハムが例として挙げているのは、たとえば Tipton の Getting Saved from the Sixties である。

 しかしエイブラハムはそれらとは立場を異にする。

 
 「プロテスタントの倫理がもつ衛生功利主義的な部分は、それ自体が誕生したときの、もともとの社会条件が失われたあとでさえ、存続している」からである(Abraham 1983: 761)
 つまり、衛生功利主義の宗教的伝統を考慮するならば、est の台頭は、「ポスト産業社会」の現象ばかりとはいえない、と。

 いや、もう少し繊細に、こういうべきだろう。

 est の特性には、「
時代性」と「歴史性」がある。
 両方ある。

 「時代性」を重視するなら、Tipton のように、「ポスト産業社会」という社会的背景について論じることになるだろう。

 「歴史性」を重視するなら、エイブラハムのように、衛生功利主義という宗教的伝統について論じることになるだろう。

 これは要するに、est の魅力、それが人びとを惹きつけた理由を、どこに見るかという問題である。

 エイブラハムはそれを、「歴史性」の方に見た。 
本稿で中心的に扱ってきた est の特性は、衛生的な論理枠組みが見出されるところにならどこにでも見出されるだろう。たとえそれが、他の、表面的には重要そうに見える目標とどれほど一緒くたになっていたとしても、である。そうした衛生功利主義にコミットする哲学とグループの分野にあって、est は、単に、私たちが1つのムーブメントであると認識するものに組織化されるようになったから目立っているにすぎない。est を、たとえば宗教の分野に押し込める正当性などどこにもない。実をいえば、類を見ない独特の分野として「新宗教」と私たちが呼ぶものを独立させる正当性もまったくない。「新宗教」は、ある重要で明確な特性を共有している。それは、その他の多くのムーブメントはもちろん、人が一般的に自身の幸せを追求すべき方向について日ごろから言われている多くの意見とも共有している。その特性とは、すなわち、衛生的な論理枠組みへの傾倒とその活用である。(Abraham 1983: 761, 強調引用者)
 
 いまや、旧来、宗教がもっていた力は弱まっている。
 だが、そこで果たされていた機能もろとも、社会状況の変化とともに必要なくなってしまったわけではない。
 いつの時代も人びとは苦しむし、いつの時代も人びとは救いを求める。
 
 代替機能は必要だ。
 それを宗教と呼ぶかどうかは、また別の問題だ。
 
 エイブラハムはest の――そして新宗教と呼ばれるもの全般の――魅力を、そうした代替機能に見た。


 私自身は、どちらかといえば Tipton に近い立場のような気がする。

 「対応」の方にではなく、苦しみの方に、時代性が刻印されているように思える。
 
 けど、この辺りは、まだうまく整理できていない。
 それ以前に、まだ十分に、エイブラハムの論文を理解できた気がしていない。

 いつかまた再チャレンジしようと思います。





2013/04/28

感情コントロールと近代的なヘドニズム


 エイブラハムの論文の結論部を読んでいたら、ふと、コリン・キャンベルの 
The Romantic Ethic and the Spirit of Modern Consumerism の中の、ある記述を思い出した。

 今回は、ちょっとそれについて書きます。


「プロテスタンティズムの倫理と功利主義の精神」の締めくくり(part5)は、次に書きます。

  (「心理学化の消滅?」のつづきも書かないと...)
 
 で、思い出して、いま気づきましたが、このキャンベルの本も、タイトルが、エイブラハムの論文と同様、ヴェーバーの『倫理』に由来しますね。
 ということはエイブラハムを読んでいてキャンベルを思い出したのも、あながち偶然じゃないかもしれない!
 などと良いふうに解釈しながら、でも、先に断っておくと、以下の内容と同じことに言及するなら、たぶんキャンベルよりももっと他に参照に相応しい文献があるような気がします。


 思い出した記述というのは、第4章の終わりの方に出てくる。

 (ページでいうとだいたい72から74ページあたり)

 キャンベルは、同書の第4章を通じて「古典的なヘドニズム」から「近代的なヘドニズム」への転換について議論している。
 ここでは詳しくは立ち入らないが彼はその転換を「感情」の位置づけの変化に見ている。

 キャンベルが(Barfield を参照して)いうには、中世においては、「fear」や「merry」や「awe」のような言葉は、いまのように、個人の内面を指す言葉ではなかった。
 それらは人間の外側の環境や出来事に帰属する、性質・傾向を表わしていた。
 たとえば畏怖(awe)の経験は、人間の反応ではなく神の属性によるものとされた。

 近代以前において、感情は「現実の諸側面」に備わっているものであり、そこから人間に影響を及ぼすものだと見なされていた。

ところが近代になり、感情が外側の「諸側面」と切り離され、人の「内側」(within)に押し込められた。

 外部環境は、それに伴い、感情とは何ら関係のない「ニュートラル」なものとして扱われるようになった。
 
 キャンベルはここに、ヴェーバーのいう「脱魔術化」の過程を見る。
 ヴェーバーの脱魔術化は、こうした点において、外部環境の「脱感情化」(de-emotionalization)の過程であったと捉えることができる、と(Campbell [1987] 2005: 73)。

 ◆


 話は少し逸れるけど、このことは、いわゆる「科学革命」の前後における自然認識の違い、としていわれていることと関連しているように思う。


 たとえば、『量子の社会哲学』の中で、大澤真幸さんが次のようにいっている。

 これもたぶんこの文脈なら他にもっと参照すべき科学哲学系の文献がありそうだけど...)
アリストテレス的な自然と、科学革命以降の科学が描いた自然との基本的な相違は、後者では、対象における知、対象に帰属する知が否定されたことにある(大澤 2010: 23)
 どういうことか?

 科学革命以前の自然観の基調は、アリストテレスの自然学によってつくられた。

 その体系において、自然は、自らが従うべきルールを知っているものとされる。
 これが、引用内で「対象に帰属する知」としていわれていることである。

 つまり、りんごは、ただ落ちるのではなく、自らの落ちるべき性質を知っていて落ちる。

 知っているからこそ、落ちる。
 その体系においては、ルールを知らないりんごは決して落ちることはない
 
 他方、科学革命以降の自然の捉え方――私たちにも馴染みのある――は、それとは異なる。
 りんごは、万有引力という「普遍的」な法則にしたがって落ちる。
 その法則を知っていようがいまいがりんごは落ちる、そういう自然観だ。
 
 大澤さんはこの対比をもとに、ここからさらに繊細な議論を展開していくのだが、ここでは割愛。

 この自然観の転換と、キャンベルのいう「脱感情化」とには、関連性を指摘できそうだ。

 キャンベルによれば、(先ほどと違う例でいえば)「character」「disposition」「temperament」といった言葉は、現代では、行動に対する主観的な作用を意味するが、かつては、外部環境の特徴を指す言葉だった。

 感情が、外部環境の属性から切り離されたわけだ。

 この「脱感情化」と、科学革命によって自然の対象から「知」が切り離されたことは、似ている。

 というのも、それらはともに、一方で、外部環境・自然がニュートラルな「客体」となり、他方で、人間が感情や知をもつ「主体」となることを意味している、といえるからだ。

 おそらくこれが、大きくいえば、
「近代化」と呼ばれる時代変化のひとつの側面なのだろう。

 ◆

 キャンベルは、外部環境の「脱感情化」に並行して、「精神的内面的世界」の「魔術化」とでも呼ぶべき過程が必要とされた、と指摘する(Campbell [1987] 2005: 73)。

 感情で、「精神的内面的世界」が、満たされた。

 キャンベルによれば、この過程にとって欠かせなかったのが「自意識」の成長である。
 たとえばその成長の一端が、近代になって「self-」 という表現が普及したことに表われている
 「self-conceit」「self-confidence」「self-pity」などの言葉は、16-17世紀に英語に登場し、18世紀に広く使われるようになった。

 なぜ自意識の成長が必要だったのか?
 それは、自意識が、外的世界と内的世界との橋渡し役を担うからだとキャンベルはいう。
 いわば、外的世界からのインプットを処理し、内的世界にアウトプットを届けるひとつの装置のようなものとして、自意識が働く。
 
 それによって可能になるものは何か?
 「感情コントロール」だ、とキャンベルはいう。
 キャンベルによれば「感情コントロール」こそ、「近代的なヘドニズム」の成立に欠くことのできないものである。
 感情を自在に統御することではじめて、快楽を十全に汲み尽くすことが可能になるからだ。

 自意識が、かつての外部環境の代わりに、感情を司る。
 キャンベルによれば、この「感情コントロール」を、ひとつの倫理として最初に強く推し進めたのが、他ならぬ、プロテスタンティズムであった。

 
 こうして書いてみると、最初に思いついたとき以上に、キャンベルの議論とエイブラハムの議論とには共通点があるような気がする。
 「感情コントロール」や「プロテスタンティズム」への言及などもそうだし、そもそも、冒頭に書いたように、タイトルからして似たようなものだ。

 キャンベルはいう。
 「感情を深める能力の進化に関していえば、文化のあらゆる領域のなかで、宗教がもっとも重要なものである」と(Campbell [1987] 2005: 74)。
 これは、明らかにエイブラハムの問題意識と共鳴している。
 
 しかし、実のところまだ、両者のつながりをうまく掴めていない気がしている。
 うまく文章化できないというか...。
 今回のキャンベルの議論のパラフレーズも、かなり粗いものになってしまった。
 次回、この点をうまく修正して中身に組み込めればいいなと思っている。

 最後に補足しておくと、今回の部分に限らず、また第4章に限らず、The Romantic Ethic and the Spirit of Modern Consumerism は全体を通して再検討するに値する本だ。

 なので、これについてもいつか書きたいです。



2013/04/23

プロテスタンティズムの倫理と功利主義の精神 part4

 
 (つづき)

 再々度、Abraham, Gary A., 1983, "The Protestant Ethic and the Spirit of Utilitarianism: The Case of EST," Theory and Society 12(6): 739-773. について。 


 この論文は、ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(以下、『倫理』)の問い直しの試みである。
 タイトルで一目瞭然ですね。
 「衛生功利主義」(hygienic utilitarianism)という同論文のキーコンセプトも、ヴェーバーの議論が踏まえられている。
 
 とはいえ『倫理』を読んだことのある人なら気づくように、ヴェーバーはそのことについて熱心に論じているわけではない。
 いや、ほとんど論じていないといっていい。
 注に出てくるにすぎない
  
 にもかかわらずエイブラハムはこの点に注目し、それをヴェーバーの研究全体に照らしても重要な問題の1つだと見ている。

 ヴェーバーは注で何を語ったか?
 
 「性的交渉」への2つの態度についてである。

 一方で、性的交渉は、原罪と結びつく「恥ずべきこと」とされる。

 子供をもうけるにしても節度をもって臨むべきだ、と。
 だが他方で、性的交渉は、「衛生上」「健康上」の理由から、制限された範囲内で必要なこととも目される。
 それで労働が捗るならばそれにこしたことはない。
 
 いずれの場合も、性的交渉はひとつの「手段」にすぎない。
 そこにあるのは、絶対的な目的のために必要なので(しぶしぶ)それを行うのだという合理的な解釈である。
 
 ヴェーバーはいう。
ピュウリタンの性的合理主義者と衛生上の性的合理主義者とはいちじるしく異なった道を辿ることになるが、この点についてだけは「お互いすぐさま了解しあえる」のだ。 (Weber 1920=1989: 303) 
グレートヒェンを売春婦としてとりあつかうこと、人間的激情の強力な支配を健康のための性的交渉と同一視すること――これは2つともピュウリタニズムの立場と完全に一致している。(Weber 1920=1989: 303,強調訳文)
 エイブラハムも、ヴェーバーにしたがって、そうした(フランクリンに象徴的に見られる)衛生的な態度に、プロテスタンティズムの影響を見る。
プロテスタント的な自己コントロールの仕方を端緒とする、個人主義的な「衛生」功利主義は、その宗教的な動機が減衰してはじめて、独立したエートスとなる。(Abraham 1983: 754)
 しかし、疑問がひとつある。

 なぜそれは「功利主義」と呼ばれるのか?

 功利主義とは通常、快楽や幸福をめぐる思想ではなかったか?
 禁欲思想に特徴づけられるプロテスタンティズムと、どんなつながりがあるというのか?

 エイブラハムはこう述べている。
 自身が、そしてヴェーバーが、問題にしている(衛生)功利主義は、いわゆる古典的な社会功利主義とは性質を異にしたものだ、と。
 この点は、前々回でも触れた。

 両者はどこが違うのか?

 
 (これがじつはあまりよくわからなかったのですが...)ひとまずいえることは、個人主義と併置されていることに現われているように、衛生功利主義は、古典的な功利主義よりもずっと個人的な利害(快楽と苦痛)に準拠する思想・態度だということだ。

 では、どの点でそれがプロテスタンティズムと結びつくといえるのか?

 
 エイブラハムによれば、それはある種の思考法においてである。
 すなわち、
... 衛生功利主義は、キリスト教によって確立された秩序体系の明らかに二元論的な概念の歴史進化における最新の段階のひとつであることがわかる。(Abraham 1983: 756)
 ここでエイブラハムが「二元論的な概念」としていおうとしていることは、噛み砕けば、「世界」と「宗教」の捉え方のことである。

 人びとの苦しみは、この「世界」に起因する。

 「宗教」は、既存の世界を拒否し、苦しみの軽減を図る。
 ヴェーバーはこの「拒否の合理的な発展」として「宗教」を捉えた。

 プロテスタンティズムの果たした役割は、そうした苦しみへの対処法の合理化という点において際立っている。

 プロテスタンティズムは、エイブラハムの表現を借りていえば、「もっとも個人主義的な救済方法のラディカル化」であった(Abraham 1983: 757)。

 これが、この思考法が、衛生功利主義として受け継がれる。

 宗教は新しい世界像を示し、いまある苦しみの解消を約束する。
 それは一種の観念的・心理的な操作である。
 est の技法も突き詰めればこの操作に依っている。
 
 
 今回はここまで。
 次回、これまでの話(part1から今回まで)をまとめます。
 上手にできるかわかりませんが...。
 それでこの論文については終わります。
 
 つづく。

2013/04/15

プロテスタンティズムの倫理と功利主義の精神 part3


 (つづき)


 再度ひきつづき Abraham, Gary A., 1983, "The Protestant Ethic and the Spirit of Utilitarianism: The Case of EST," Theory and Society 12(6): 739-773. について。


 今回はエイブラハムが est のどこら辺に「衛生功利主義」を見出したのかについて。


 まずは est (エスト)のことを簡単に。

 est とは1971年にワーナー・エアハード(Werner H. Erhard, 1935-)がはじめた「Erhard Seminars Training」の略称である。
 ラテン語で「it is」という意味になるらしい。
 日本でのちに「自己啓発(開発)セミナー」と総称されることになる能力開発プログラムの草分けといえる。
 
 話はやや逸れるが、この種の「セミナー」は、一般にヒューマン・ポテンシャル運動(そのものか、その派生)として捉えられる。
 これは、別に間違っていない。
 間違っていないが、しかし、個人的には釈然としない気持ちもないではない。
 
 両者のあいだには差異があり、その差異を追究することが(少なくとも自分の研究にとって)重要である気が前から強くしているからだ。
 でも、これについてはまた今度。
 
 
 さらに脱線します...。

 David Kaiser の How the Hippies Saved Physics という大変おもしろい本がある。

 タイトルの通り、量子力学の窮地をいかにして「ヒッピーたち」が救ったのかについて書かれた本。
 私のように量子力学について無知な人間でもおもしろく読めました。
 (全部読めておりませんが...)

 このなかで、エアハードの名前が、わりと印象的な形で登場する。

 
 戦中から戦後にかけてのアメリカ科学(物理学)界において、相対性理論や量子力学のようなジャンルは、かつての栄光の見る影もなく、失速の一途をたどっていた。
 戦争や冷戦構造が、よりプラクティカルな、たとえば軍事技術(レーダーや原子爆弾など)の研究を優先的に後押する状況をもたらしたからだ。

 その点で、量子力学のようなスペキュラティブな研究は、助成対象として敬遠されるようになった。

 その状況打開に貢献したのが、ヒッピーやニューエイジャーと呼ばれるような人たちだった。

 たとえばエアハードがその1人だ。

 彼は「Physics/Consciousness Research Group」という研究団体の立ち上げのための資金を供出するなど、経済的な援助によって量子力学の“延命”に大きく貢献した。

 Kaiser によると、エアハード自身、もともと科学、とりわけ物理学に関心をもっていたそうだ。

 彼の改名後の Werner という名も(本名はJohn Paul Rosenberg)、かの高名な物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルク(Werner Heisenberg)から取ったとされる(Kaiser 2012: 104)。
 (ちなみに Wiki によれば Erhard の方はドイツの政治家ルートヴィヒ・エアハルトらしい)

 ほかにも、たとえばエサレン研究所が「Fundamental Fysiks Group
」と連携し、1つの研究拠点のように機能した(Kaiser 2012: 109-19)。
 エサレンでは量子論に関するワークショップが1976年から定期的に開かれていたそうだ。
 
 そもそもそうした量子物理学者の何人かは、そのままヒッピーやニューエイジャーと呼んで差し支えないような人たちでもあった
 “物好き”たちの交流が、結果的に、現代の量子情報科学(量子コンピュータ、量子暗号化など)への道を確保した。



 で、ここからが、本題であるエイブラハムの論文について。

 (前置きの方が長くなってしまった...)

 エイブラハムは est の“思想”の核心をこう説明する。

 
 est は、習慣的な言葉の用法・意味を書き換えることによって、日常の行動や世界の見方そのものの問い直しを迫る、とエイブラハムはいう。
 
 そのとき個々人がどんな問題を抱え悩んでいるかはセミナーにおいてさして重要ではない。
 むしろそれを問題だと考える思考それ自体を矯正するよう働きかける。
人びとは est で、具体的な問題に応じるためにトレーニングを受けるのではなく、ある特定の性質をもった「世界」に応じるためにトレーニングを受ける。(Abraham 1983: 750)
 それは、対処療法的なセラピーというより、個人のもつあらゆる苦悩に対処することを目指した一種の根本治療の方途である。
 (そして抜本的と称する解決策は、しばしば何の解決ももたらさない。)
私たちがエストの成功を、その明らかに心理療法的な狙いや宣伝文句を実現する点で評価することに頑なにこだわる限り、エストを理解することはできない。エストはむしろ、個人の苦しみの問題に対する、ある1つの近代的な反応と見なされるべきだ。しかしこのこと以上に、かなり強い意味合いにおいて象徴的なのが、そのボキャブラリーである。当然ながら、このボキャブラリーは逐語的に正しいわけではないし、またそのように考えることはエストのメッセージを狭めてしまうことにしかならない。ボキャブラリーはむしろ、あらゆる種類の苦悩を、世界のもう1つ別のイメージにもとづいて「再定義」するのに役立つ。この根底的なイメージを見つけること、つまりエストの象徴的なコードを解読することこそが、ここで目論んでいることである。(Abraham 1983: 750)
 エイブラハムはそのコードを、「衛生功利主義」という鍵を使って解読しようとしている。

 だが、その意味を理解するためには、エイブラハムに従って、ヴェーバーを経由する必要がある。

 
 つづく。



2013/04/12

プロテスタンティズムの倫理と功利主義の精神 part2


 (つづき)


 ひきつづき Abraham, Gary A., 1983, "The Protestant Ethic and the Spirit of Utilitarianism: The Case of EST," Theory and Society 12(6): 739-773. について。


 著者のエイブラハムがこの論文でまず問題にしているのは、est なども含めた新宗教(運動)の位置づけである。

 
 よく知られるように、20世紀半ばのアメリカでは大小さまざまな(疑似)宗教団体が生まれた。
 エイブラハムはそこへと至る思想的な展開をロバート・ベラーの論考(Bellah 1976)に従って次のように整理する。

 最初に①「聖書主義」、次いでその否定としての②「功利主義」、そしてそれら両方の否定としての③「対抗文化思想」、といった具合に。

 70年代に対抗文化が失速し、代わりにその理想を受け継いだのが、ベラーのいうところの「新しい宗教意識」(new religious consciousness)だった。

 けどこれはあくまで単純化された見取り図にすぎない。

 エイブラハムは新宗教を「功利主義」の否定として(のみ)描くべきではないと考える。
 est などのヒューマン・ポテンシャル運動系のグループには明らかに功利主義的な傾向が見られるからだ。

 ベラーもこの点を指摘してはいる。

 だが、ベラーは「功利主義」の語の扱いがやや粗雑だ、というのがエイブラハムの意見だ。
 端的にいえばベラーは、「道徳性」(morality)と「功利主義」を対立的に描きすぎている、と。

 エイブラハムの主張はこうである。

 「古典的な(社会)功利主義」は、しばしば道徳的な抑制や宗教的な禁欲と対立する、ただの利己主義と考えられがちだが、それは誤解である。
 「古典的な功利主義」はむしろ利己的な個人主義とは相容れない。
 (そしてプロテスタンティズムと親和的だ。)
 
 しかし、(ややこしいのだが)同じ功利主義でも、est に見られるような功利主義は、古典的なそれではない、とエイブラハムはいう。
est やそれに類するグループの「功利的」な要素は、[引用者注:古典的なそれとは]まったく別の系列、プロテスタントの倫理からはじまる発展の系列に由来する。(Abraham 1983: 746)
 その est に見られるような功利主義、プロテスタンティズムに連なる功利主義を、エイブラハムは「衛生功利主義」と呼ぶ。
 

 この論考が興味深いと思えるのは、そもそも題材に関心があるというのも大きいけれど、功利主義にしても、プロテスタンティズムにしても、古くからある主義や思想が、そのままの形ではなく、かといってまったく別の形でもなく、部分的に形を変えて継承され、現代文化のなかに息づいている、と著者のエイブラハムが考えている点である。


 どの部分が維持され、またどの部分が改変されているのか、その取捨選択の実情をエイブラハムは詳述しようとしているように思う(たぶん)。

 そこがおもしろい。

 次回は est について書くことになりそう。

 
 つづく。



2013/04/09

プロテスタンティズムの倫理と功利主義の精神 part1


 もういまとなっては最初にどんなふうに知ったのかは忘れてしまったけど、ずいぶん長いこと気になってきた論文がある。


 おもしろい(気がする)のに、テーマ的に似通った文献でも引用されないし、参考文献でも見かけない(つまらないのか?)。

 著者の素性もよくわからない(著書はないのか?)。
 
 なにより、もう30年も前の論文だ。
 けっこうボリュームあるし、時間をかけて読む(ましてや、それについてこうして書く)価値などないのかもしれない。
 しかも、自分の語学力のなさを棚に上げていうと、なんか読みにくかったりもする...

 けど、どうしても気になるので、意を決して何回かに分けてその論文について書いていこうと思う。



 著者は Gary A. Abraham。

 タイトルは「The Protestant Ethic and the Spirit of Utilitarianism: The Case of EST」。
 1983年の論文で Theory and Society 12(6): 739-773 に載っている。

 タイトルを見てわかるように、ヴェーバーの議論に立脚している。

 est を題材にとり、「今日の心理療法的なセルフヘルプ運動のイデオロギー的起源」を調べることを目的としている(Abraham 1983: 741)。
 
 論文のキー概念の1つは「hygienic utilitarianism」である。
 定訳が(あるのかも)わからないが、以下では「衛生功利主義」とする。
 
 hygienic という語からは、なんとなく身体的・有機的なものが連想されると思うけれど(そんなことないかな?)、論文で問題にしているのは一貫して「心」や「考え方」の衛生である。
 つまり、「mental hygiene」(精神衛生)のことである。
 現在では mental health という言い方が一般的だけど、かつては mental hygiene という言い方のほうが主流だったらしい。

 20世紀初頭のアメリカで「精神衛生運動」(mental hygiene movement)と呼ばれる運動が起きた。

 論文では同運動についてさりげなくふれられる程度だけど後学のためにごく簡単にまとめておこう。

 精神衛生運動のはじまりは1908年、コネチカット州に「精神衛生協会」が設立されたこととされる。

 設立に主に携わったのがC. W. ビアーズ(Clifford W. Beers, 1876–1943)で、彼はいまでは「精神衛生運動の創始者」に位置づけられている。
 
 当時、精神病院における入院患者の処遇はひどかった。
 その環境改善の機運を高めるきっかけをつくったのが、ビアーズの著書『わが魂にあうまで』(A Mind That Found Itself)だったとされる。
 自身、重度のうつ病に罹患し精神病院に入院したビアーズはその体験を本にまとめた。
 
 精神衛生運動はそこからはじまった。

 なお、精神衛生運動については、未読だけど以下の論文が参考になりそう。

 Cohen, Sol, 1983, "The Mental Hygiene Movement, the Development of Personality and the School," History of Education Quarterly 23(2): 123-149.

 今回の論文の主題にとって重要だと思われるのは、運動が掲げたのが、精神病患者の待遇改善ばかりでなかった点である。

 運動は、精神医学・心理学の拡大を後押しし、人びとの精神的な健康への理解や意識を高める結果をもたらした。

 これは明らかに現代の心理学化の先駆けといえる。 


 たとえば平木典子は著書『カウンセリングの話』のなかで、今日的な意味合いにおける「カウンセリング」の発展・普及に寄与した運動の1つとして精神衛生運動を挙げている(平木 2004: 34, 41-2)。

 (ちなみに他には「職業指導運動」と「教育測定運動」の2つを挙げている。)

 Abraham は、このときクローズアップされた「精神衛生」という考え方が est に代表されるような現代(1970-80年代)の「セルフヘルプ運動」や「新宗教運動」の“教義”のなかに継承されていることを示そうとしている。


 つづく。





2013/04/08

心理学化の消滅?part2

 
 つづき)
 
 Ole Jacob Madsen & Svend Brinkmann (2010) "The Disappearance of psychologisation?" について(⇒ PDF)。
 
 同論文では、心理学化した社会/人間像を見事に描いた作品として、『素粒子』で有名になったミシェル・ウエルベックの小説第一作『闘争領域の拡大』(以下、『闘争』)を取り上げている。
 (なんで英題、Whatever なんだろう?)
 
 心理学化された社会では心理学化された主体として生きることから逃れることは不可能に近い。
 逃れられるとすればそれは“病人”になることを意味するのかもしれない。
 『闘争』の主人公の男がそうなるように。
 
 Madsen と Brinkmann は『闘争』の主要テーマを次の箇所に見出している。
 つまり、この世界は2つのシステムにより成り立つと語り手が主張してみせる箇所に。
 
 2つのシステムとはすなわち、「経済のシステム」と「セックスのシステム」である。
 たとえば『闘争』の語り手はこんなふうにいう。
やはり僕らの社会においてセックスは、金銭とはまったく別の、もうひとつの差異化システムなのだ。そして金銭に劣らず、冷酷な差異化システムとして機能する。そもそも金銭のシステムとセックスのシステム、それぞれの効果はきわめて厳密に相対応する。(Houellebecq 1994=2004: 111-2)
 あるいは別の箇所では、両システムは「支配力と金と恐怖をベースにした...どちらかといえば男性的なシステム」と「誘惑と性をベースにする女性的なシステム」(ibid.: 169)とも表現される。

 主人公やその同僚は、前者のシステムでそれなりに成功を収めているものの、後者のシステムでは落ちこぼれている。

 
 語り手は、いずれのシステムにおいても「闘争領域の拡大」が推し進められてきたと指摘する。
経済の自由化とは、すなわち闘争領域の拡大である。それはあらゆる世代、あらゆる社会階層に向けて拡大している。同様に、セックスの自由化とは、すなわち闘争領域の拡大である。それはあらゆる世代、あらゆる社会階層に拡大している。(Houellebecq 1994=2004: 112)
 こうして私たちは書名の由来を知る。
 ここまでが、『闘争』の話。

 で、唐突かもしれないが、この2つのシステムの話は、4/2の投稿で「ずっと気になっている」と書いた関係、すなわち『ゼアウィルビーブラッド』のダニエルとイーライに象徴される関係、あるいは4/3の投稿で引いたリアーズのいう「合理化」とその「反作用」の関係を考えるヒントになるような気がする。


 Madsen と Brinkmann も論文で近いことを述べている。

 (けど、その辺あまり掘り下げてない、というか関心がそこにはなさそう。)

 要するに、ずっと気になっているのは、大袈裟かもわからないが、こういうことである。


 経済のシステムとセックスのシステム、ダニエルとイーライ、あるいは合理化と反作用は、2つで1つと考えるべきではないか?

 そして、それが、その「差」こそが、いわゆる近代化のダイナミズムを生んできたのではないか?

 もしそうだとするならば、2つののシステムの話(あるいは心理学化の話)を Madsen と Brinkmann のように専ら「レイト・モダニティ」や「ネオリベ政策」の側面から語るのは、問題をむやみに現代に還元してしまっていることにならないだろうか?

 (もちろんそうした側面から語り批判していくことは大切な作業だが。)
 
 これはちょうど、前回の投稿の疑問[B]と重なっている。


 いやいや、しかしその前に、重要な問題を1つスキップしてしまっている。

 一方の「経済のシステム」が、ダニエルや合理化と結びつくのはいいとして、他方の「セックスのシステム」が、どう心理学と結びつくといえるのだろうか?

 「性・親密性」と「心理学・セラピー」??

 じつは Madsen と Brinkmann はこの点を少し論じてくれてもいる。

 次回はその部分を参考に書いてみたい。
 
 でもちょっと内容的に飽きてきたので別の話題を1回はさもうかな。

文献
  • Houellebecq, Michel, 1994, Extension du domaine de la lutte, M. Nadeau.(=2004,中村佳子訳『闘争領域の拡大』角川書店.)




2013/04/05

心理学化の消滅?part1

 
 一時期よりも、「心理学化」「心理主義化」の語を目にしなくなったような気がする。
 日本語では。

 それはもちろん心理学化の嵐が過ぎ去ったからではなくて、単に用語としてキャッチーじゃなくなっただけだろう。

 それを論じる意義はまだ失われていない、どころか、むしろ心理学化は、ますます私たちの生に入り込み、もはや誰もその存在に改めて注目しないほどに私たちの生を規定している。
 今回は、そんな内容の論文、Ole Jacob Madsen & Svend Brinkmann (2010) の "The Disappearance of psychologisation?" について。
 こちらで読めます(⇒ PDF)。

 ちなみに、日本社会学会の学会誌『社会学評論』が2011年3月の号(第61号4巻)で「『心理学化』社会における社会と心理」を特集テーマとしている。
 この号の渋谷望さんの論文、おもしろいです。
 
 
 今回の論文の著者 Madsen と Brinkmann はいう。
 現代の西洋社会は徹頭徹尾、心理学化された社会であると。

 現代社会において「心理学は、社会問題の解決策としてよりも社会問題のひとつの兆候として差し出される」(Madsen & Brinkmann 2010: 183)。
 「心理学の効果は新たな次元へと移行し、それ自体を検出したり問題化したり批判したりするのを一層困難にさせた」(ibid.: 186)。
 「心理学化という用語は、ほとんどその意味を失いつつある。もはや私たちは心理学的カテゴリーなしに自分自身、社会、政治を想像することが不可能だからだ」(ibid.: 187)。
 
 うん、そうなのかもしれない。

 けど、私たちは、およそ「~~化」と呼ばれるような理論に接するとき(とくにそれが喫緊の問題であると喧伝される場合)、どうしても次のような疑問をもたずにはいられない。
 
 すなわち [A]「そんなに進行してますかね?」や [B]「いまにはじまったことですかね?」という疑問である。

 [A]
 ひとつめの疑問は、こういうことだ。
 
 たしかに心理学化はしている。
 トラウマという言葉の浸透や自己啓発ブームが端的にそれを象徴している。
 だが今回の論文のように、「心理学的カテゴリーなしには自分たち自身、社会、政治を想像することは不可能」であり、それを「検出したり問題化したり批判したりするのが困難」というべきほど、事態は進行しているといえるのだろうか?
 
 あるいはこういう疑問を投げかけると、こんな反論が返ってきそうな気もする。
 そのように事態が急を要してないと思わせるまさにそれこそが心理学化の結果なのだよ、と。

 このような陰謀論めいた切り返しをさせないためには、結局のところ、個別事例に説得力があるかどうかが鍵だと思う。
 
 [B]
 ふたつめの疑問は、こういうことだ。
 
 たしかに心理学的知識や技法は日常生活に浸透しているだろう。
 だがそれは、なにも現代に限った話じゃないのではないか?
 前々回の投稿前回の投稿で記したように、それに類する現象はすでに20世紀初頭のアメリカに見られる。

 であるなら、かつての心理療法の流行と現代の心理学化の違い――心理学「化」というほどの違い――は、どの辺りにあるのだろうか?
 その違いがわかれば、それこそがまさに現代の心理学化の要諦といえるはずだ。
 
  
 以下では、こうした疑問にも目くばせしながら論文の中身について書いていきたい。
 だけど、ここからだと長くなりすぎしてしまうので、つづきは次回に。
 
 

2013/04/03

神経衰弱とコカ・コーラ

 
 リアーズつながりでもう1つ。
 (リアーズ復習しなきゃ…)

 前回の投稿に書いたとおり、リアーズは世紀転換期から1920年代にかけて高まった「心理療法のエートス」に注目している。

 そしてそれを広く近代化の「反作用」という文脈で捉えている。
心理療法のエートスは、文化の合理化――はじめてマックス・ウェーバーによって記述された、人間の外部環境にたいして、また窮極には内面生活にも系統だったコントロールを加えようとする、ますます大きくなる努力――に抗した反作用に根ざしていた。世紀の変り目には、官僚機構の「合理性」の鉄の檻が、教育ある豊かな人たちにさえ微妙に影響しはじめていた。多くが、自分たちになじみある自主性の感覚が掘り崩されていると、強烈な肉体的、情緒的、精神的経験から切り離されていると、感づきはじめていた。心理療法のエートスが、合理化によって負わされた傷をいやし、苛立つブルジョワジーの抑圧されたエネルギーを解放する約束をした。(Lears 1983=1985: 37)
 リアーズはその「反作用」の力学を、ブルジョワジーの生活実感の希薄化という観点から説明している。

 生活環境の激変が、彼らを「伝統」や「慣習」から引きはがす。
 そのとき生まれる「アンリアリティの感覚」。
 
 その「アンリアリティの感覚」、あるいは「合理化によって負わされた傷」は、しばしば「神経衰弱」(neurasthenia)となって表われた。
 神経衰弱(症)とは、19世紀後半のニューヨークの精神科医ジョージ・M・ビアード(George Miller Beard)が世に名を知らしめた病気である。
 ビアード(ベアード?)は当時、都市労働者たちに典型的に診られた過労による抑うつ症状や倦怠感などの多様な症例を包括的に表わす用語として、神経衰弱を用いた。

 神経衰弱症については、余裕がなくてなかなか追いかけられないけどとても掘りがいのあるテーマで、鈴木晃仁先生のブログでちょいちょい言及されています(たとえば、このエントリー)。
 気になります。
 
 前回の投稿で話題にした心理学・心理療法のブームは、当然、この神経衰弱の流行とも関係がある。
 神経衰弱の流行が似非セラピストの量産を招く素地をつくったし、あやしげな医薬品もそれにともない数多く出回った。

 私たちのよく知るコカ・コーラの原型となった飲み物もそうした商品の一種だった。

 コカ・コーラの歴史を丹念に追った労作で、著者のマーク・ペンダグラストはこう述べる。
コカ・コーラこそは、こうした激動の時代の、発明が次々に生まれた騒々しくも神経症的な新しいアメリカの産物だった。コカ・コーラも最初、人々の混乱と不安を種に金儲けを当てこんで売り出された数々の製品と同じく、『神経強壮薬』として売り出された。(Pendergrast 1993=1993: 21)
 よく知られるように「元祖」コカ・コーラには、微量だがコカの葉の覚醒成分が配合されていた(コカインですね)。
 その昂奮作用によって神経衰弱なんて払拭してしまおう、というわけだ。




2013/04/02

戦間期アメリカの心理学ブーム


 Jessica Grogan の Encountering America の第1章を読んでいて、遅まきながらアメリカでのフロイト理論の受容のされ方がとてもおもしろそうなことに気がついた。
 その辺もっと知りたくなって、手頃な本(できれば日本語で!)ないかなと思って調べてたら日本語の論文でおもしろそうなのがあった。

小倉恵実「科学言説的アイコンとしてのフロイト・心理学及び精神分析 : 両大戦間期アメリカの大衆向け雑誌・文学におけるフロイト及び心理学のイメージの受容について」(⇒ PDF


 タイトルからしてすでにおもしろそう。


 論文は、1920-30年代のアメリカで起きたフロイト/精神分析/心理学ブームの様子を当時の文学作品や雑誌記事を紐解き見ていく体裁となっている。

 そうしたブームを、フロイト理論の濫用だとか心理学の「堕落」だとして批判する専門家も同時代にたくさんいて、小倉さんはそうした専門家による批判も丁寧に例示してくれている。
 彼らの批判や危惧(の引用)から伺える「心理学万能ブーム」の様子はたしかに凄くて、「心理学化」「心理主義化」は決して現代だけの問題じゃないなと思う。

 フロイト理論の歪曲そのものも気になるけど、個人的に「おおっ」って思ったのは、小倉さんがそうしたブームの背景の1つとして、両大戦間期のバブル景気を挙げているところ。
 経済的な豊かさが、(先端)科学を笠に着て金儲けを企む「似非医者」や「似非心理学者」の登場を許した、という。
 たとえばロバック(A. A. Roback)という学者が、
...「精神分析、及びフロイトが素人に受け入れられた時に作られてしまった誤った科学言説」として「抑圧」や「リビドー」、「転移」といった学術的な用語が雑誌には散りばめられており、これらの精神分析に限定して使われるべき用語が「似非医者(quack)」の金儲けの種になっていると論じた...(小倉 2011: 133)
人物として紹介されている。
 似非医者の説く「『潜在意識の活用の方法』や『セールスマンが(顧客の)潜在意識に対して(商品を)魅力的に訴える方法』といったような、現在でいうところの『ビジネスハウツーもの』とされる書籍や記事」(同上)も多く出回ったという。

 現代では、そこにさらに“脳科学(者)”が仲間入りした印象・・・。

 結論部で小倉さんは、

引用者注:好景気ないしバブル景気の]余剰資本と「似非心理学」が結びつくことによって「精神分析」や「心理学」がオカルティズムや神秘主義と結びついて「性格分析」化し、また出版界が印刷物を大量生産する体制が整えられたことによって、本来であれば重篤な疾患を持つ病人に対してのみ行われていた精神分析が識字を持つ一般の人々にとっても「わかりやすく自分を判断し不安を解消してくれるもの」として応用可能だと思い込み、次々と飛び付くことになった。(小倉 2011: 150)
と書いている。

 この辺り、ずっと気になってきた。

 たとえば、T.J.ジャクソン・リアーズの研究とテーマ的にリンクしてくるように思う。

 リアーズは名著『近代への反逆』(原題: No Place of Grace )などで、19世紀末から戦間期にかけての「心理療法のエートス」の高まりに着目している。
心理療法的世界観は精神の健康を維持する方法論というより、精神医学についてはほとんど何も知らない人びとが受け入れた常識、ないしは生活感覚だった。そしてその起源は、1960年代のカウンターカルチャーや、世界大戦後の郊外生活の豊かさの誕生よりももっと前の時代に遡る。(Lears [1981] 1994= 2010: 75-6)
 心理療法人気の背景としてリアーズが挙げるのは、医者の権威の上昇、生活実感の希薄化、プロテスタンティズムの訴求力の低下(世俗化)などである
 産業化や都市化がもたらす生活環境の激変がブルジョワジーたちの神経を摩耗させる一方で、それまで神学的コンセンサスを与えてきた宗教の枠組みは、科学的世界観の広がりのなかでもはや魂の拠り所を提供しえなくなりつつあった

 そこに心理学・精神分析が登場する。
 「心理学万能ブーム」、「心理療法のエートス」の高まりは、産業化や都市化、消費社会化と裏表の関係にある。
 その関係は、まさしく20世紀初頭を舞台とした『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』のダニエルとイーライの関係を髣髴とさせる(イーライはセラピストじゃないけど)。
 
 両者の関係がずっと気になっている。

 アメリカにおけるフロイト受容に関しては、Encountering America でも引かれてる Nathan G. Hale, Jr. の 
The Rise and Crisis of Psychoanalysis in the United States: Freud and the Americans, 1917-1985 と、2012年に出た John C. Burnham 編の After Freud Left: A Century of Psychoanalysis in America が気になるところ。