2013/04/08

心理学化の消滅?part2

 
 つづき)
 
 Ole Jacob Madsen & Svend Brinkmann (2010) "The Disappearance of psychologisation?" について(⇒ PDF)。
 
 同論文では、心理学化した社会/人間像を見事に描いた作品として、『素粒子』で有名になったミシェル・ウエルベックの小説第一作『闘争領域の拡大』(以下、『闘争』)を取り上げている。
 (なんで英題、Whatever なんだろう?)
 
 心理学化された社会では心理学化された主体として生きることから逃れることは不可能に近い。
 逃れられるとすればそれは“病人”になることを意味するのかもしれない。
 『闘争』の主人公の男がそうなるように。
 
 Madsen と Brinkmann は『闘争』の主要テーマを次の箇所に見出している。
 つまり、この世界は2つのシステムにより成り立つと語り手が主張してみせる箇所に。
 
 2つのシステムとはすなわち、「経済のシステム」と「セックスのシステム」である。
 たとえば『闘争』の語り手はこんなふうにいう。
やはり僕らの社会においてセックスは、金銭とはまったく別の、もうひとつの差異化システムなのだ。そして金銭に劣らず、冷酷な差異化システムとして機能する。そもそも金銭のシステムとセックスのシステム、それぞれの効果はきわめて厳密に相対応する。(Houellebecq 1994=2004: 111-2)
 あるいは別の箇所では、両システムは「支配力と金と恐怖をベースにした...どちらかといえば男性的なシステム」と「誘惑と性をベースにする女性的なシステム」(ibid.: 169)とも表現される。

 主人公やその同僚は、前者のシステムでそれなりに成功を収めているものの、後者のシステムでは落ちこぼれている。

 
 語り手は、いずれのシステムにおいても「闘争領域の拡大」が推し進められてきたと指摘する。
経済の自由化とは、すなわち闘争領域の拡大である。それはあらゆる世代、あらゆる社会階層に向けて拡大している。同様に、セックスの自由化とは、すなわち闘争領域の拡大である。それはあらゆる世代、あらゆる社会階層に拡大している。(Houellebecq 1994=2004: 112)
 こうして私たちは書名の由来を知る。
 ここまでが、『闘争』の話。

 で、唐突かもしれないが、この2つのシステムの話は、4/2の投稿で「ずっと気になっている」と書いた関係、すなわち『ゼアウィルビーブラッド』のダニエルとイーライに象徴される関係、あるいは4/3の投稿で引いたリアーズのいう「合理化」とその「反作用」の関係を考えるヒントになるような気がする。


 Madsen と Brinkmann も論文で近いことを述べている。

 (けど、その辺あまり掘り下げてない、というか関心がそこにはなさそう。)

 要するに、ずっと気になっているのは、大袈裟かもわからないが、こういうことである。


 経済のシステムとセックスのシステム、ダニエルとイーライ、あるいは合理化と反作用は、2つで1つと考えるべきではないか?

 そして、それが、その「差」こそが、いわゆる近代化のダイナミズムを生んできたのではないか?

 もしそうだとするならば、2つののシステムの話(あるいは心理学化の話)を Madsen と Brinkmann のように専ら「レイト・モダニティ」や「ネオリベ政策」の側面から語るのは、問題をむやみに現代に還元してしまっていることにならないだろうか?

 (もちろんそうした側面から語り批判していくことは大切な作業だが。)
 
 これはちょうど、前回の投稿の疑問[B]と重なっている。


 いやいや、しかしその前に、重要な問題を1つスキップしてしまっている。

 一方の「経済のシステム」が、ダニエルや合理化と結びつくのはいいとして、他方の「セックスのシステム」が、どう心理学と結びつくといえるのだろうか?

 「性・親密性」と「心理学・セラピー」??

 じつは Madsen と Brinkmann はこの点を少し論じてくれてもいる。

 次回はその部分を参考に書いてみたい。
 
 でもちょっと内容的に飽きてきたので別の話題を1回はさもうかな。

文献
  • Houellebecq, Michel, 1994, Extension du domaine de la lutte, M. Nadeau.(=2004,中村佳子訳『闘争領域の拡大』角川書店.)