2013/09/30

SSRIと心の風邪 part2/2

 
 (つづき)
 
 SSRIメーカーが日本の市場に参入するにあたり、大きな障壁として立ちはだかったのは文化的な問題だった。
 象徴的なのがdepression」と「うつ病」のギャップだった。
 
 日本において従来「うつ病」とは、基本的に重篤な症例を指していた。
 あくまで入院治療や長期治療を想像させる言葉だった。
 対する、英語の「depression」はもっと一般的で用途の広い言葉である。
 深刻な精神疾患も指す一方で、Kathryn Schulzの「Did Antidepressants Depress Japan?」という記事(⇒ リンク)の表現を借りるなら、好きな野球チームがペナントで負けてしばらく落ち込む場合なんかにも使われる。
 
 この差はたとえば入院期間にも反映されているといえるかもしれない。

 Schulzの記事によると、精神疾患の平均入院期間はアメリカでは10日以下なのに対し、日本ではなんと1年以上である。
 
 日本でのSSRI導入は、アメリカ、イギリスに比べ10年以上遅れている。
 この10年は、そうした文化的な差異を前に、導入を目論む人たちがした断念や逡巡に費やされたといえる。
 
 日本でSSRIの定着させるためには、日本の従来の「精神疾患」のイメージを変えることが、ぜひとも必要だった。
 別の言い方をすれば、「うつ病」を「depression」に近づける必要があった。
 Schulzの記事でもいわれるように、日本の「うつ病」観には、「軽度の」(mild)うつ病というものが含まれていなかった。
 それはほとんど先天性の不治の病を連想させた。
 だから、明確な症状、はっきりとした罹患の疑いがなければ、病院に赴くことなど選択肢にあがらなかった。
 
 SSRIメーカーが必要としたのは、もっと一般的にも話題にしやすく、薬によって症状を緩和することのできるうつ病観だった。
 「depression」のように、軽度の症例をも「うつ病」に含めて扱うことができれば、“潜在的な消費者”のパイを大きくすることができる。
 前回参照した冨高はこういっている。
SSRIの売り上げを伸ばすには、うつ病にかかったら病院に行くという意識を社会に根付かせることが必要となる。そして医療機関に受診してもらうには、何はともあれ、まず本人が病気に気づくことが必要なのである。そのためには「病気の啓発活動」を行う必要がある。(冨髙 2010: 75)
 そのため日本では、1999年以降、有名人がCM起用され、うつ病は誰でも罹患しうる身近なものだとのメッセージが発信されるようになった。
 
 Schulzも先の記事でいう。
軽度のうつ病は感染性ではないが、その言葉の根源的な意味合いにおいて、communicableだと見なすことができる。製薬会社とメディアは、過去5年にわたって、一貫したあるメッセージをcommunicateした。つまり、あなたの苦しみは病気かもしれない、と。
 このメッセージを広めること、れを目的に、製薬会社の啓発活動は展開された。
 
 折りしも、そうした新しいうつ病観にぴったりの表現が生まれた。

 それは「病気の啓発活動」にとって大変便利な表現だった。
 それが、「心の風邪」である。
 
 ウォッターズはいう。
GSK社が直面していた大きな問題は、日本の精神科医やメンタルケアの専門家がdepressionをいまだに「うつ病」と訳しているために、多くの日本人にとって、不治の先天的な病を連想させるということだった。この言葉の意味するものを和らげようとして、マーケティング担当者はきわめて効果的だとあとになってわかった、ある比喩を思いつき、うつ病を「心の風邪」と表現し、これを広告や販促資料のなかで繰り返し用いた。(Watters 2010=2013: 267
 「心の風邪」は、ちょうどタイムリーに話題になってもいる。
  
 マイク・ミルズ監督が撮った日本のうつ病に関するドキュメンタリー映画『マイク・ミルズのうつの話』が現在公開間近(10月19日)であり、同作では「心の風邪」がキーワードとなっているからである(⇒ 公式サイト)。

 というよりこの映画、そもそも原題が「Does Your Soul Have A Cold?」(心の風邪をひいていますか?)である(参考までに映画に関する記事:日本人の“心の風邪”の実態に迫る「マイク・ミルズのうつの話」予告公開)。
 
 「心の風邪」という表現の出所はどうもはっきりしないらしいが、新しいうつ病観を定着させるのに「きわめて効果的」だったことはたしかだ。
 ちなみにパキシル(商品名)の物質名「パロキセチン」のウィキペディアの記述にはこうある(⇒ リンク)。
軽症のうつ病を説明する「心の風邪」というキャッチコピーは、1999年に明治製菓が同社のSSRIであるデプロメールのために最初に用い、特にパキシルを販売するためのグラクソスミスクラインによる強力なマーケティングで使用された。 
 軽度のうつ病としての「心の風邪」。
 
 それは風邪のように、誰でもかかる可能性がある。

 それは風邪のように、症状を薬で抑えることができる。
 それは、ただし、風邪のように放っておくと、ひどいことになるかもしれない。
 
 だから病院へ行き、薬を処方してもらおう、というわけだ。
 
 
 
 疾患と製薬会社の啓発・販促活動との関係性についてはとくに欧米では、以前より問題視され検証されてきた。
 
 たとえば参考文献として、翻訳があるものだと、クリストファー・レーンの『乱造される心の病』や、より製薬会社の方にフォーカスしたマーシャ・エンジェルの『ビッグ・ファーマ』などがある(きちんと読めておりませんが・・・文末にリンクを貼っておきます)。

 もちろん、前回紹介した冨高さんの『なぜうつ病の人が増えたのか』も、読みやすく、かつ丁寧で、なにより安価なのでおすすめです。
 
 ウォッターズの本が素晴らしいと思えるのは、その議論の射程が、SSRIを売り込む製薬会社のマーケティング活動に限定されていないことだ。
 彼が語ろうとするのは、原著の副題「The Globalization of the American Psyche」にある通り、アメリカ流の精神疾患概念――もっといえば、「心」についての考え方――のグローバル化現象だ。
 第4章の例でいえば、アメリカ式のdepressionによるテイクオーバーだ。
 
 『クレイジー・ライク・アメリカ』の舞台は、いずれも西欧以外の国々ばかりである。
 題材もうつ病だけではない。
 第1章は香港における拒食症を、第2章はスリランカにおけるPTSDを、第3章はザンジバルにおける統合失調症を、事例として扱っている。

 当地には、それぞれ、「土着の」精神疾患の在り方と、それへの対処法があった。

 だが、アメリカの精神疾患概念(その明文化としての『DSM』)が輸入されることで、それらが変質する。
 ウォッターズが同書を通して描き出そうとするのは、この変質である。
 
 
 以上に書いてきたような問題は、すでに検証も進み、文献も多く出ている。
 前回から今回にかけては、それらをまとめるつもりで書きましたが、なんだか稀釈したような内容になってしまいました。
 また関連文献を読んで続編を書ければと思います。
 
 
 
 
 
 
 

2013/09/27

SSRIと心の風邪 part1

 
 イーサン・ウォッターズの『クレイジー・ライク・アメリカ』がおもしろかったので、今回はそれをもとにつらつらと。
 翻訳が今年の7月に出たばかりで、編注も付いているし、翻訳本にしてはリーズナブルだし、とても良い本だと思います。
 
 今回は、第4章「メガマーケット化する日本のうつ病」について
 
 日本でうつ病患者が増えていると言われる。

 たとえば、こちらの記事(西多昌規「薬漬け:現代医療の『サイド・エフェクト』」)を参考にさせてもらうと、2008年の日本の「うつ病・躁うつ病」の総患者数は、じつに1996年の2倍以上である。
 12年で2倍以上というのはなかなかの増加率に思える。
 おそらく、「うつ病」という疾患そのものが日本で一般に認知されるようになったのもこの時期だろう。
 
 患者急増の理由を推察するに、そうした病気の知識の普及が、これまで見過ごされてきた「患者」を掘り起こすことで、結果、患者数が増えたのだと思える。
 
 でも、こうした見方は、少なくとも事態のごく一部しか捉えていないようだ。
 というのも、うつ病患者の急増には、そうした認知の問題より遥かにはっきりした要因が他にあると指摘されているからだ。
 
 その要因とは、SSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)の登場である。
 
 
 
 日本を事例にこのことを明らかにしたのが、先の西多さんの記事でも引用されている、冨高辰一郎の『なぜうつ病の人が増えたのか』である。
 書名の通り、日本におけるうつ病患者増加の背景を探った本である。
 
 日本ではいつ頃からうつ病患者が増えたのだろう?
 冨高は、いくつかのデータからその時期を1999年頃と見積もる。
 
 これまでうつ病患者の増加は、しばしば経済不況が背景にあると説明されてきた。
 不況を背景としたストレスの増加が要因だと。
 
 冨高はしかし、この説は説得的でないとする。
 日本では経済不況とうつ病患者の増加の時期が微妙にズレている(英国だともっとズレている)からである。
 
 では、より説得力のある要因と考えられるものは何か?
 それが、SSRIの販売開始である。
 日本では1999年にデプロメール/ルボックスが、翌2000年にはパキシルが市場に導入された。
 
 「SSRIの導入」、そして「うつ病患者の増加」。
 ただ起きたことを順に記せばこうなる。
 「導入」のあとの「増加」は果たして偶然だろうか?
 
 冨高は偶然ではないと答える。
 なぜならこの現象は、日本以外の先進国でも観察される非常に再現性の高い現象だからだ。
 「米国、英国、フランス、カナダ、ドイツ、イタリア、スウェーデン、デンマーク、ノルウェイ、フィンランド、アイスランド、オーストラリア」(冨髙 2010: 60)でも同様の現象が確認できると冨高はいう。
 SSRIの市場導入は、必ずといってよいほど、当該国におけるうつ病患者の増加をもたらす。
 冨高はそれを「SSRI現象」と呼ぶ。
 
 問題は、なぜSSRI現象が起きるのか、である。
 普通に考えて、うつ病に効果的と謳われる治療薬が販売されれば、患者数は減るはずではないか。
 もしかしてSSRIにはまったく効果がないのか。
 しかし仮に万が一そうだとしても、なぜ患者数が増えるのだろうか。
 
 冨高が注目するのは、製薬会社による「病気の啓発活動」である。
 
 
 
 『クレイジー・ライク・アメリカ』に戻ろう。
 第4章で描かれるのも、そうした「病気の啓発活動」の諸相である。
 
 関係者へのインタビューを交えながら、とくにGSK社(グラクソ・スミスクライン株式会社)が日本で「パキシル」を売り出すにあたってどのような活動を行ったかをウォッターズは記述している。
 (ただし1999年にはこだわってはいない。)
 
 たしかに、治療薬を商品とする企業にとって需要の開拓とは、病気・患者の開拓を意味するだろう。
 そうした開拓が、過剰で強引なものに思えるとき、近年になって、それは「disease mongering」(病気の押し売り)などとして批判されてきた。
 例としてADHDや男性型脱毛、性機能障害などが挙げられる。
 日本ではたしかメタボリック症候群」がこの文脈から批判された。
 
 参考までに、disease mongeringについて書かれた論文としては以下のものがあります。

  • Moynihan, Ray, Iona Heath, and David Henry, 2002, "Selling Sickness: The Pharmaceutical Industry and Disease Mongering," British Medical JournalApril 13; 324(7342): 886–891. (⇒ リンクはこちら
 
 GSK社、および日本でSSRI市場の拡大を目指す人びとがしようとしたのは、何か?

 それは、大袈裟にいえば、日本の精神疾患概念を書き換えることだ。
 
 
 というところまでで、ちょっと長くなりそうなので、いったん閉じます。
 
  
 ※冨高さんの本はkindle版が安いです。
 
 

2013/09/16

『すばらしい新世界』と『島』 part2/2

  
 (つづき)
 
 Schermer によれば、向精神薬の「コスメティック」な利用に関する倫理的な議論において、現状、一般的には、『新世界』的な悲観論が優勢であるという
 
 なぜ悲観論が優勢になるのか?
  
 1つのありうる回答として、『新世界』の方が『島』よりも現代社会の実態に即しているから、というものが挙げられる(私もそう思った)。
 つまり、『新世界』の方が真に迫っている以上、向精神薬の利用を危惧する見方、ディストピア的な見方が前景化したとしても不思議ではない、というわけである。
 対する『島』のユートピアは非現実的だと。
 
 だが Schermer はこれに異を唱える。
 具体的な論拠はここでは省くが、『新世界』も『島』もその(非)現実性において大差ないという
  
 いや、もっといえば、重要なのは、どちらがよりリアルなのかを判定することではない、と Schermer はいう。
 いわく、「それらの小説を読むうえでポイントとなるのは、それらの小説が、物事がどのようであるかを示すことではなく、それらの小説がどのようでありうるか、私たちがそれらをどのように捉えるかを示すことである」(Schermer 2007: 125)。
 
 重要なのは、小説的イマジネーション(の正否)ではない。

 それらの小説がもつ、私たちの社会・時代にとっての意味――それらの小説のどの部分が、なぜ、どのように議論を喚起するのか、である。
 
 であるならば、ネガティヴな側面ばかりが強調されがちな現状に鑑みるに、向精神薬の利用のポジティヴな側面を吟味するような議論をもっと展開してもよいのではないか。
 これが Schermer の提案である。
 
 
 
 向精神薬をめぐる倫理的問題を検討するうえで、Schermer は、『新世界』や『島』が何を描いているかよりも、(私の表現でいえば)何を描いていないかに注目している。
 この重要な前提をスキップすれば、私たちを待ち受けるのは性急な結論だけだ。
 
 Schermer が注意を喚起するのは次の2点である。

 「完全なコントロールの不可能性」と「幸福や生き方についての価値観の多元性」である。
 このいずれも、現実と照らし合わせたときに、両小説から抜け落ちている視点である。
  
 Schermer によれば、薬の価値や機能というものは、それが根づいている社会に大きく依存している。
 それらは私たちの価値観の反映であり、当然、社会によって、また時代によっても変化する。
  
 とはいえ他方で、私たちが新しい薬の価値や機能を完全にコントロールすることも、また不可能である。
 薬の開発・流通・普及・実際の使用方法などには、常に不測の事態がつきまとっている。
 
 だが、こうした現実があるにも関わらず、まさにこの点を、『新世界』や『島』が捨象していることを私たちはつい気にせず素通りしてしまいがちだ。
 このことはまた、『新世界』や『島』が1つの価値観によって統一されていることと関係している。
 
 いや、たしかに両小説は、それぞれまったく異なる価値観によって覆われている。
 一方はディストピアを、他方はユートピアを描出している。
 しかし、それらは、ただ1つの価値観によって覆われているという点においては、明確に共通している。
 
 『新世界』や『島』において幸福や生き方についての価値観は、現実に比べ遥かに硬直的である。

 そこに「反対派はほとんど存在しない」Schermer 2007: 126)
 
 この価値多元性の欠落は、小説内世界が完全にコントロールされているのと表裏一体である。
 Schermer は、この「完全なコントロール」と「価値多元性の欠落」という、まさにそれ自体フィクショナルな前提が、しかしそのまま、向精神薬の「コスメティック」な利用に反対する保守派(たとえばレオン・カス)の議論のなかに移植されていることを指摘する。
 
 彼らは、完全な統制など現実的でないことや、そのことがむしろ歓迎すべきことであることをなぜだか忘れてしまっている。 

 そうした重要な前提を欠いたうえでの危惧や反対は、Schermer からすれば、杞憂にすぎないというわけだ。
 
 Schermer は、論文をこう締めくくる。
 小説は、たしかに向精神薬とその可能性について私たちがどう考えたらよいかを考えるのに有用である。
 だがそれに拘泥すべきではない、と。
 
 
 
 向精神薬の価値や機能に関してポジティヴな可能性を探ろうとする Schermer の提案には、たしかに同意できるような気がする。
 
 ただ、まだ、うまく飲み込めていない面もある。
 それはどちらかといえばSchermer への批判ではなく、自分自身の問題意識として。
 
 気になっているのは、今回のような議論と、医療社会学などでしばしば話題にされる「disease mongering」(病気の押し売り)の問題との関連についてである。
 
 つまり、私たちは押しつけられた「病気」や「能力不足」を補ってまで製薬会社を潤す必要があるのだろうか、という疑問について、Schermer ならばどう答えるだろうか。
 それも1つの可能性、1つの価値観というだろうか。
 
 別の言い方をすれば、フランシス・フクヤマやレオン・カスではなく、たとえばデイヴィッド・ヒーリーらの見解について Schermer はどう考えるのだろう。
 ヒーリーもまた、フクヤマらとは別の立場からではあるが、当該問題に関してネガティヴな見解を示しているといえるからだ。
 

 この辺りはまだ整理できていないので、引きつづき考えていきたいところです。
 (あまりこうした「倫理」の議論は得意ではないのですが・・・)
 
 
 最後に、今回の論文を知ったのは、以下の論文で参照されていたからです。
 Dan J Stein (2012) "Psychopharmacological Enhancement: A Conceptual Framework," Philosophy, Ethics, and Humanities in Medicine, 7: 5.(⇒ こちらで読めます)
 
 あと、今回の論文で参照されていて気になった本を1冊、紹介しておきます。
 ピーター・D・クレイマーが序文を書いているようです。
 もしご興味の方がいれば・・・。
 
 では。
 
 

 
 
 

2013/09/10

『すばらしい新世界』と『島』 part1

 
 4ヶ月放置ののち、ぬるっと再開。
 
 M. H. N. Schermer の2007年の論文 "Brave New World versus Island: Utopian and Dystopian Views on Psychopharmacology" (Medicine, Health Care and Philosophy 10: 119–128) について。
 いわゆるニューロエシックス分野の論文で、向精神薬(たとえば抗うつ剤)の「コスメティック」な利用が投げ掛ける倫理的な問題について議論している。
 
 こちらで読めます。
  
 
 
 この論文で著者の Schermer は、イギリス出身の作家オルダス・ハクスリーの2つの小説の比較を試みている。
 1つは、代表作『すばらしい新世界』(Brave New World, 1932)。
 これはバイオエシックスやニューロエシックスの議論、エンハンスメントをめぐる議論のなかでよく引き合いに出される、定番の作品である。
 
 Schermer のアイディアは、それを、それとはまた別の作品、ハクスリー最晩年の、『島』(Island, 1962)と対比させようとするものである。
 こちらは『新世界』よりは格段に知名度は下がり、上述のような議論においてもめったに取りあげられることはない。
 (ちなみに関係ないけど、『島』の表紙はとても可愛い。)
 
 なぜ『新世界』と『島』を対比させようというのか?

 それは、両小説にそれぞれ対照的なかたちで、印象深い薬物が登場するからである。
 
 『新世界』には、「ソーマ」(soma)と呼ばれる薬物が登場する。

 それは、副作用なく人びとに活力と気晴らしを与える万能薬である。
 
 よく知られるように『新世界』は、徹底的な管理社会、一種のディストピアを描いている。
 これに対して『島』で描かれるのは、逆に、ユートピア的な共同体である。
 Schermer がいうように、それは、『新世界』の「正の鏡像」である。
 
 『島』の舞台は、インド洋上の小島「パラ」(Pala)である。

 登場人物や設定などについては割愛するが、パラの共同体にとって重要な薬物は「モクシャ薬」(moksha-medicine)と呼ばれる。
 それは啓示や霊感を与える作用をもつ。
 人びとは、それがもたらす神秘体験を通じて「現実」や自分自身の「本当」の姿を悟る。
 
 人間性やパーソナリティを剥奪するかのようなテクノロジカルな統制の道具としてのソーマとは異なり、モクシャ薬は、「真の」人間性・パーソナリティの獲得に役立つものとして描かれる。
 Schermer の表現を借りれば、前者が「alienation」を象徴するのに対し、後者は「revelation」を象徴する。

 ソーマもモクシャ薬もどちらもその「社会」(?)の維持にとって欠かせないアイテムである。

 この点に違いはない。
 だが、維持の対象がディストピアであるかユートピアであるかに大きな違いがある。
 
 ◆

 
 【『新世界』・ディストピア・ソーマ】対【『島』・ユートピア・モクシャ薬】という際立った対立を、Schermer は、ニューロエシックスでおなじみの倫理的論争に重ね合わせる。
  
 キーワードは「真正性」(authenticity)である。
 
 すでに述べたように、『新世界』は、エンハンスメント関連の議論のなかでよく引き合いに出される。
 それは、現代のバイオテクノロジーの在り様(とそれが提起する問題)の一部が、見事に『新世界』に活写されているからである。

 そして、多くの論者が、現代世界は、まさしく『新世界』的な「ディストピア」に近づきつつあるのだという不安や危惧を表明する文脈において、この小説に言及してきた。

 
 たとえばフランシス・フクヤマは『人間の終わり』(Our Posthuman Future)の冒頭でこう述べている。
本書の目的は、ハクスリーの『すばらしい新世界』が正しいと論じること、現代バイオテクノロジーが重要な脅威となるのは、それが人間の自然本性を変え、我々が歴史上『ポストヒューマン』の段階に入るかもしれないからだ、と論じることである。(Fukuyama 2002=2002: 9)
 彼がこの本で強く訴えようとしているのは、バイオテクノロジーの規制である。
 
 薬でエンハンスメントされた能力など「人間的」な能力とはいえない。
 それは、人工的な、造られた、自然でない、偽の能力に過ぎない。
 ほら、『新世界』で描かれているように。
 というわけだ。 
 
 だが、と Schermer はいう。

 
 その薬の作用による状態が「偽物の」「非真正な」状態なのだとても、では、人間として「本物の」「真正な」状態とは一体どのような状態だというのか?
 何もしない「自然」な状態がそうなのか?
 フクヤマのいう「人間の自然本性」は、何もしないことを意味するのか?
 
 Schermer はいちいち分けたりしていないが、ここには2つ、問題があるように思う。
 1つは、人間として真正な状態、あるいは本当の自分とは、果たしてどのような状態を指すのかという問題。
 もう1つは、真正な状態や本当の自分へと至る経路・手段に、正しい/正しくないはあるのかという問題である。
 
 前者の問いに正面から答えることはできない。
 いや、答えることができない、ということをまず確認すべきである。
 
 Schermer は次のことを指摘する。
 本当の自分とはどこかに存在している静的なものではなくて、 「なる」(becoming)という動的なプロセスにおいて生じるものである、
 この点で「自己発見」は「自己形成」と同内容である。 
 
 では、自己形成の手段に正否はあるのか?
 たとえば「正しくない」とされる薬物によって形成された人間は「本当」の人間ではないのだろうか?
 
 Schermer はそんなことはないと答える。
 
 現代人の自己形成には、好むと好まざるとに関わらず、さまざまなテクノロジーが与っている。
 アーミッシュのような人びともいるにはいるが、多くの人びとにとって、テレビやインターネットなどは(もしかしたら冷蔵庫や自動車だって)大なり小なり自己形成に関わっているはずだ。
 しかし、そのうち、どのテクノロジーが「自然」で「真っ当」であり、どのテクノロジーが「不自然」で「紛い物」などと誰がいえるのだろうか?
 
 
たとえ「本物でない」とされる経験からも人は学び、成長しうることがある。
 (これこそ『宗教的経験の諸相』のテーマではないか。)
 『島』はそれを描いていると読める。
 
 『新世界』に比べたら圧倒的に、『島』はこれまで言及されてこなかった。
 Schermer は、まさしくこの点に、エンハンスメントの倫理的議論における、ある種、構造的な視点の欠落が、つまり、「本物でない」とされる経験からも人は学び成長しうることがあるという視点の欠落が現われていると指摘する。
 
 
 今回はここまで。

 次回(があれば)、自分なりの疑問点をまとめてみたい。
 あと、美容整形の問題として考えなおしてみると、またおもしろいかもしれないなと思いました。