2013/12/14

リアルセルフ論 part4

 
 (つづき)
 
 結果は、予想を裏切るものだった。

 
 衝動志向の労働者よりも、制度志向の労働者の方が、感情管理と〈ほんものじゃなさ〉の感覚を関連づけていることが明らかになったからだ。
 
 
 アンケート調査の結果として、まず、感情管理と〈ほんものじゃなさ〉の感覚との間には相関が見られることが確かめられた。
 やはり感情労働は一定の〈ほんものじゃなさ〉の感覚をもたらす、と。
 これは従来の指摘通りである。
 
 加えて、その両者の関係が、Turnerの「自己概念の拠点」に、すなわちその人がリアルセルフをどこに置くかによって左右されることも示された。
 つまりTurnerのリアルセルフ論は感情労働の解明に寄与しうる、と。
 これもSloanの目論見通りである。
 
 ここまではいい。

 問題はその左右のされ方である。
 
 結果は、衝動志向よりも制度志向の人の方が〈ほんものじゃなさ〉と強い関連性をもつことを語っている。
 なぜ、状況や役割に応じて感情が統制されるときにこそ自己の本物らしさを見出す制度志向の人たちが、仕事中に〈ほんものじゃなさ〉をより感じるのだろうか。
 仕事をしている自分こそが本当の自分ではなかったのか。

 
 この矛盾を、Sloanは、仕事中に経験する感情の中身の点から説明しようとする。
 
 衝動志向の人が感情管理を通じた〈ほんものじゃなさ〉をあまり感じないのはなぜか?
 Sloanはこう考える。
 それは彼・彼女らがそもそも、勤務中の自分に本物らしさを感じ(ることを期待し)ていないからだ、と。
 ゆえに相対的に、感情管理のもつ意味が小さく(meaningfulでなく)なるのだろう、と。

 制度志向の人たちは、仕事をしているときの自分に本物らしさを感じる。

 だが、そのときの感情の中身をSloanは問題にする。
 つまり、制度志向の人たちが本物らしさを感じるのは、仕事中でも、とくにポジティブな感情(例:幸せ)を経験しているときのはずだ、と。
 さすがにネガティブな感情(例:苛立ちや不安)を経験するときには〈ほんものじゃなさ〉を感じるに違いない。
 感情管理はそういうときにこそ必要になる。
 
 衝動志向の人にとっては、仕事中にポジティブな感情を経験することなどはじめから期待されない。
 ネガティブな感情を経験することも想定内だ。
 ことさらマイナスでもない。
 むしろ仕事中にネガティブな感情を経験することは、衝動志向の自己の論理に照らして一貫性がある。
 だから〈ほんものじゃなさ〉を感じにくい、とSloanは考える。
 
 他方、制度志向の人にとっては、ネガティブな感情の経験は大きなマイナスを意味するだろう。
 仕事中のポジティブな感情の経験がauthenticityと強く結びついているからだ
 陽が強ければ、陰もまた濃くなるというわけだ。
 
 Sloanはこう推論し、実際、追加分析の結果はこの見方を支持している。
 
 以上のことはまた、こう一般化して考えることができる。
 〈ほんものじゃなさ〉を感じるか否かは、感情管理の状況よりも先に、経験する感情の中身(ここではポジティブかネガティブか)に左右されるのだ、と。
[追加分析の]以上の結果は次のことを示している。勤務中に経験される非真正性がどの程度になるかは、たしかに自己概念の拠点に依存する。が、(・・・)自己概念の志向性が問題となるのは、感情管理の評価よりも、まずは感情経験の解釈においてである。(Sloan 2007: 315)
 こうしてSloanは、仕事中の〈ほんものじゃなさ〉の解明にとって自己概念の拠点、ならびに感情経験の意味というファクターが重要であることを示した。
 
 
 
 以上、Sloanの論文の流れをたどってきた。
 
 この論文は、感情労働とそこで経験される〈ほんものじゃなさ〉の感覚の関係を解明することが本筋であって、Turnerの枠組みそれ自体の検討を目指したものではない。
 けれど、Turnerを参照する際には、経験される感情の種類や意味についても考慮する必要があるということを示している点で重要に思える。
 たとえば「制度的な場面において、とくにどのような感情を経験するときにリアルセルフを感じるのか」とか「どのような種類の衝動を制限されたときリアルセルフではないと感じるのか」とか。
 
 上記の、予想外の結果に対するSloanの説明にはどことなくすっきりしない面もありますが、そもそもデータの読み取り方にあんまり自信がもてないし、話をTurnerに戻したいので、その点は掘り下げないことにします。
 
 次回は、Turnerに戻るか、Sloanが参照するGordonの論文について書く予定です。
 
 
 (つづく)
 
 
 

2013/12/11

リアルセルフ論 part3

 
 (つづき)
 
 得意の脱線癖を発揮しまして、今回は、Turnerの論文そのものではなく、Turnerの論文をもとにして書かれた論文について書きます。
 これ↓です。

  • Melissa M. Sloan, 2007, "The "Real Self" and Inauthenticity: The Importance of Self-Concept Anchorage for Emotional Experiences in the Workplace," Social Psychology Quarterly, 70(3): 305-318. (⇒ PDFはこちら
 読みやすい。
 
 
 著者Sloanの研究テーマのひとつは「感情労働」である。
 感情労働とは、職務上、感情管理が要求されるような労働形態を指す。
 
 たとえば私たちの社会ではファストフードやコンビニの店員は、苛立ちや不安を素朴に表わすことはできない。
 いや、できるけど、それは規範的でない。
 規範にそぐわない感情は表に出ないよう抑えつけねばならない。
 これが感情管理のひとつの姿である。
 
 彼・彼女は状況に合わせて感情をある限定的な範囲におさめるよう要請されている。
 そこで要請される管理水準は私的なコミュニケーションのそれよりも遥かに窮屈である。
 その窮屈さが度を過ぎれば、彼・彼女は精神的に疲弊してしまうだろう。
 
 こうしたことが注目されるようになった背景にはもちろん産業構造の変化、対人サービス労働の拡大がある。
 図式的にいうなら、かつての「産業社会」が労働者に「肉体」の酷使を求めたとすれば、こんにちの「消費社会」は「心」の酷使を求めている、というわけである。
 
 こうした問題を調査した先駆的かつ最も重要な研究成果が、A・R・ホックシールドの『管理される心』(原著1983年)である。
 以降、多くの研究がなされ、いまや感情労働研究(ないし感情社会学)はひとつの学問的なサブジャンルとして定着した感すらある。
 ホックシールドが同書で調査対象としたのは客室乗務員だったが、現在、他にはたとえば看護職や介護職、苦情処理なんかの職種も感情労働と見なされている
 ただ近年の研究により、サービス業かそうでないかは感情管理の程度にさほど影響を与えないともいわれている。
 
 
 なぜ感情労働が精神的な疲弊につながりうるかといえば、ひとつには、Sloanもいうように、それがしばしば労働者に〈ほんものじゃなさ〉(inauthenticity)の感覚を生むからだということができる。
 〈ほんものじゃなさ〉は今回の論文のキーワードである。
 
 職場で感じるイライラを押し殺しつくられる笑顔は、あくまで仮面、あくまで営業スマイルである。
 イライラが真正な感情なら、その笑顔は偽りであり、本物ではないと感じられる。
 とくに苛立ちや不安のようなネガティブな感情は、感情管理によって、表に出るよりも前に検閲されることになる。
 とはいえネガティブな感情を抑えつけ、外見上、笑顔で偽装するだけで事足りるなら、まだ楽かもしれない。
 感情と表情はそれほど容易に切り離せるものではないだろうから。
 であれば、本物ではないが場に相応しい感情を抱くこと、抱こうとすることもまた、感情管理に含まれてくる。
 これはおそらく、単に表情だけを取り繕う場合よりももっと心理的に負荷のかかることだろう。
 そして、そうした負荷の蓄積は深刻な健康被害をもたらしうるだろう。
 
 
 感情労働は、〈ほんものじゃなさ〉の感覚をつくりだし精神的な負担を生む。
 このことは実際、調査により明らかにされてきた。
 だが、他方で、感情管理がすべからく有害なんだと言い切ることもまたできない。
 Sloanによればそのことも調査により示されてきている。
 たしかに、想像してみるに、無用のトラブルを避けるのに感情管理は役に立つはずだし上手く対処できればそれはそれで達成感や充実感につながることもあるだろう。
 
 だが、もう1点、従来の“素朴な”(といっていいかわからないが)感情労働論には問題に思える点がある。
 Sloanが注意を払うのもこの点である。
 それは、感情労働論には、ある暗黙の前提が、すなわち管理された感情を「ほんものじゃない」とする前提が入り込んでいるという点である。
 
 その前提への疑問はたとえばこう表現できる。
 仕事中の自分にこそauthenticityを感じる人もいるのではないか?
 そのようなタイプの人とそうでない人とでは、感情管理のもつ意味合いが違ってくるのではないか?
 
 Sloanはこの問題を考えるのにTurnerの枠組みが有効なのではないか考えた。
 なぜならば(もうおわかりだと思うが)、Turnerの枠組みとは、まさに、本当の自己をどこに置くのかというauthenticityをめぐって設計されたものだったからである。
 Turnerの「自己概念の拠点」(self-concept anchorage)を、感情管理と〈ほんものじゃなさ〉との間ではたらく一種の「仲介役」として捉えること、これがこの論文の核となるアイディアである
 
 管理された感情を「ほんものじゃない」とする“素朴な”感情労働論が前提とするのは、Turnerのいう「衝動志向」の労働者像である。
 「衝動」に類別されるような苛立ちや不安、激情や欲情をコントロールしなければならない感情労働に〈ほんものじゃなさ〉を感じるのだとすれば、彼・彼女のリアルセルフは、たしかに衝動志向といえる。
 だが、規範や役割に適応している自分にこそリアルセルフを見出す「制度志向」の労働者にとってはどうか。
 彼・彼女にとって仕事中の感情管理は〈ほんものじゃなさ〉の感覚にはつながらないのではないか。
 制度志向の労働者にとって感情管理は果たしてどのような意味をもつのか。
  
 Sloanはそれを2004年のアンケート調査にもとづき検証している。
 
 
 結果は、しかし、Sloanの予想を裏切るものであった。
 
 
 (つづく)
 
 
 

  
 
 

2013/11/30

リアルセルフ論 part2

 
 (つづき)
 
 今回は参考文献の紹介だけ。
 ざっと。
 
 前回の終わりの方でターナーの論文(の頭の部分)に対して疑問に思ったことを書いた。
 けど、それらの疑問は実は他の論文でいくらか答えられてもいる。
 
 このことを先に言っておかねば、と思いまして。
 
 たとえばターナー自身、下記の論文で、自らのリアルセルフ論を「True Self Method」という方法を用いることでデータ的に裏付けている。
 ここで「制度から衝動へ」という説は大枠で支持されている。
  
 Turner, Ralph H., and Jerald Schutte, 1981, “The True Self Method for Studying The Self-Conception,” Symbolic Interaction, 4(1): 1–20.
 
 またその翌年(ターナーの「リアルセルフ」論文からほぼ10年後)に発表されたスノーとフィリップスの論文でも、ターナーの説が再検証されている。
 この論文でも、学生を対象としたテストによって「制度から衝動へ」という説は概ね支持されている。
 
  Snow, David A., and Cynthia L. Phillips, 1982, “The Changing Self-Orientations of College Students: From Institution to Impulse,” Social Science Quarterly, 63(3): 462-76. 
 
 つまりターナーの説は、後からにせよ、それなりに裏付けが得られているということである。
 
 これら2つの論文がおもしろいのは、「制度から衝動へ」の、さらにその先にふれている点である。
 いずれにおいても示されるのは、「衝動的自己」が二分化する見解である。
 これについてはまたちゃんと論文を読み直してから書きます(きっと)。
 
 もともとこれらの論文については、前回のターナーの論文をひととおり紹介したのち、それを受けてこういう論文もありますよ、という形で読み直しつつ書こうと思っていた。
 けど、それだと遅くなるし書けなくなるかもしれないので、先に紹介だけしてしまうことにしました。
 前回のターナーの論文が単に思弁を弄しているだけ、と思われてもいけないので。
 
 
 
 あと日本語文献も紹介しておきます
 これらも同じように、ちゃんと読み直してから書くつもりだったけど、先に紹介だけ。
 
 ターナーの説をめぐっては片桐雅隆先生がいくつかの著作のなかで丁寧にレビューされています。
 というかこれでターナーのことを知りました。
 
 確認しているものを列挙するとこんな感じです。
 
  『意味と日常世界――シンボリック・インタラクショニズムの社会学』(1989年)・・・第6章
  『変容する日常世界――私化現象の社会学』(1991年)・・・第4章
  自己と「語り」の社会学――構築主義的展開』(2000年)・・・第4章・第7章
  『自己の発見――社会学史のフロンティア』(2011年)・・・第4章

  
 
 もしリアルセルフ論が気になった方はぜひこちらをご覧ください。
 スノーとフィリップスの論文についても書かれています。
 
 あともう1つだけ。
 最近見つけました。
 
  船津衛『自分とは何か――「自我の社会学」入門』(2011年)・・・第4章
 
 
 

 船津先生は他に、G.H.ミードについて多く研究書を出されています。
 
 
 というわけで、今回はこんな感じで。
 参考文献の紹介でした。
 
 (つづく)
 
 

2013/11/26

リアルセルフ論 part1

 
 2ヶ月放置・・・。
 週一更新のつもりが、月一もままならず。
 
 今回は「リアルセルフ論」について。
 
 本当の自分。
 ・・・なかなか思春期感あふれる題材です。
 
 リアルセルフという題材はこれまでちらほらと議論されてきているが、今回取りあげるのはそのなかでもわりと早い時期に発表されたものだと思う。
 取りあげるのは、Ralph H. Turner1976年に発表した、ずばり「The Real Self: From Institution to Impulse」という論文。
 American Journal of Sociology, Vol. 81(5): 989-1016に載ってます。
 あとでもう1本、流れで別の論文も取りあげます
 
 著者のターナーは、アメリカの社会学者です。
 今回の内容でいったら社会心理学者といってもいいかもしれない。
 
 
 
 人は「本当の自分」をどこに見出すのだろうか。
 
 会社や学校にいるときの自分だろうか、パートナーといるときの自分だろうか、ゆっくりお風呂に浸かっているときの自分だろうか、ギターをかき鳴らしているときの自分だろうか、ああでもないこうでもないとブログを書いているときの自分だろうか。
 
 たとえば酔っぱらっている自分は通常本当の自分とは見なされない。
 酒席では普段は絶対言わないようなこと、あとから撤回したくなるようなことをつい口走ってしまったりする。
 けど、それは、ときに「本音」と呼ばれたりもする。
 酒の力を借りてぶっちゃける、なんてこともある。
 
 あるいは、化粧はどうだろう?
 メイクアップした自分が本当の自分? いやいや、すっぴんが?
 
 本当の自分はどこにあるのか。
 どこに見出すのか。
 ターナーはその場所のことを「locus of self」「self-locus」(自己の地点)とか、「self-anchorage」(自己係留地?)などと表現する。
 セルフという船は方々に航海に出るけれども、必ず母港に帰り、錨をおろす。
 いわばその母港が、リアルセルフの場所だ。
 
 ターナーは、そのリアルセルフの力点が、総じて、(サブタイトルにある通り)「制度」(institution)から「衝動」(impulse)へとシフトしたと主張する。
 これが論文の核となる主張である。
 
 本当の自分が「制度」ないし「衝動」に位置づけられるとは、どういうことだろう?
 一見わかりにくいが、ターナーによれば、こういうことである。

 制度にリアルセルフを位置づける人は、集団・組織・社会における役割や義務を遂行する自分に本当の自分を見出す。
 衝動にリアルセルフを位置づける人は、自然な、自発的な感情・意志・欲望に本当の自分を見出す。
 
 ここではあえて前者を「制度的自己」、後者を「衝動的自己」と呼ぼう。
 厳密には論文中では、「under the institution/impulse locus, ...」だとか「the self as institution/impulse」だとか、とくに定句のないまま議論が進行するが、ここでは煩わしいので形式的に書いてしまおう。
 
 日本語としてのわかりにくさはあるが、考えてみれば、確かにこういう2つの自己の在り方があるというのは実感として理解しやすい。
 ぴったり一致するわけではないが、たとえば仕事中の自分と余暇中の自分、あるいはpublicな自分とprivateな自分、どちらにリアルセルフの重心を置くかの違いだと考えるとイメージしやすい。
 
 以下、ターナーに従いながら、さらに細かく、ときに言葉を補いつつ、両者の違いを見ていこう(Turner 1976: 992-5)。
 
 (1) 第一に、両者は従う対象の点で異なる。つまり、制度的自己がある基準に忠実に従って行動する一方で、衝動的自己は、それを自発的にしたいかどうかという願望に準ずる。
 (2) 第二に、制度的自己にとって真の自己とは「獲得」され「到達」される何かであるのに対し、衝動的自己にとっては「発見」される何かである。
 (3) また第三に、制度的自己にとり、真の自己は、高いコントロール下において現われるものであるのに対し、衝動的自己の場合は、制御が外れたときにこそ現われる。
 (4) 第四として、「偽善」の捉え方も異なる。制度的自己にとって偽善とは規範に沿って行動できなかった事態である。衝動的自己にとっては、むしろ規範に固執するあまり思いとは裏腹に行動してしまうことが偽善である。
 (5) また第五に、どのような「演技」を素晴らしいと見なすかの点でも異なる。制度的自己の観点から好ましいのは、隙のない技術的に洗練された演技である。衝動的自己の観点からは、演技者の弱さが顕わになるような演技にこそ価値が置かれる。
 (6) 第六に、制度的自己は未来自制で語られるのに対し、衝動的自己は現在時制で語られる。前者において「到達」されるべき自己は、現在の自己の時間的な延長線上にある。が、後者において「発見」されるべき自己は、現在の自己とは別のどこか、いわば空間的な延長線上に存在する。
 (7) そして最後に、第四の偽善と同様、「社会的圧力」に対する考え方も異なる。制度的・衝動的いずれの場合でも、社会的圧力は、真の自己への道程の障壁となる。だが制度的自己にとってそれは個人的また社会的な基準からの逸脱を唆す、足の引っぱり合いのようなものを意味し、衝動的自己にとっては意志に反する義務や禁止事項を指す。
 
 
 以上が、2つの自己に関するターナーの説の素描である
 
 なるほど感覚的にはよくわかる。
 これはターナーが、衝動的自己への重心移動と、彼自身が同時代的に目撃してきた対抗文化の到来とを結びつけていることを考え合わせると、よりピンときやすい。
 
 上の(3)の説明の中で、ターナーはドラッグやアルコールに言及している。
 つまり、そうした酩酊物質は、制度的自己にとり真の自己を見失わせる脅威であるのに対し、衝動的自己にとっては真の自己を発見するための助けとなる、と。
 衝動的自己にとり酩酊物質はポジティヴなものとして捉えられている。
 
 この説明からは、やはり当時流行したドラッグ文化を想起せずにはいられない(ターナー自身はドラッグ文化そのものについては特段ふれていないが)。
 実際、この文化に特徴的に見られたのは、ハイになっている自分こそが本当の自分であるというような考え方であった。
 たとえばそれは、ドラッグ文化のバイブル『知覚の扉』にも見られる。
 同書でオルダス・ハクスリーが自らの体験をもとに語ったことの1つは、次のことだった
 幻覚体験が見せるものこそが「世界の真の姿」である、と。
 
 ハクスリーによれば(このブログ、やたらとハクスリーに言及していますが)、私たちが日常で「現実」として知覚しているのは本当の意味での現実ではない。
 それは、脳や神経系がフィルターのような役割を果たすことで多様で膨大な情報がカットされた一種、還元された世界である。
 だけどフィルターはときに機能不全を起こすことがある。
 あるいは、人工的に機能不全を起こすことができる。
 
 幻覚剤は、そうした機能不全を起こさせる1つの手段である。
 だからハクスリーによれば幻覚体験が見せるのは決して「幻覚」などではない。
 それこそが、ありのままの世界、還元されていない世界である。
 
 ここには、真の現実はむしろ幻覚の側にあるという転倒、素朴な「現実/幻想」理解の転倒が見られる。
 この転倒は、真価を見出す対象が「自己」か「世界」かの違いはあるものの、衝動的自己の説明に見られるのと同型であるように思う。
 この点で、衝動的自己の考え方とドラッグ文化の考え方は、たしかに共鳴している。
 
 
 
 とはいえターナーの説にはやはり疑問もある。
 
 列挙すると、
  ①なぜ制度と衝動だけなのか? 他の自己の在り方はないのか?
  ②制度と衝動は対極の関係にあるといえるのか?
  ③制度的自己が前景化していた時代など果たしてあったのだろうか?
  ④制度から衝動へのシフトは、単なる年齢的なものではないのだろうか?
  ⑤ターナーはこのシフトを不可逆と考えているのだろうか?
 などの疑問が浮かぶ。
 ②については若干の説明があるものの、ターナーの説の論拠は、全体としてやや希薄であると感じる。
 
 とくに気になるのは、制度的自己の方のリアリティである(③・④)。
 対抗文化が盛り上がり、衝動的自己のような自己理解が迫り出してくるのはターナーの目の前で起きてきたことだけに説明からもリアルさ伝わってくるし、また上述のようにして、当時のドラッグ文化と衝動的自己とを結びつけることもできる。
 だから衝動的自己はわかる。
 
 だが、制度的自己の方は、どうか。
 それは、その、衝動的自己という新しい感性と対比させたいがために後から用意された“仮想敵”のようなものではないのか。
 いつの時代も、若者の多くは衝動的自己に重心があるのではないかとも思えるし。
 
 
 というふうに疑問はいくつかあるけれど、それらを抱えつつ、さらに読み進めていきたいと思います(なんだそれ)。
 
 
 (つづく)
 
 
 

 
 

2013/09/30

SSRIと心の風邪 part2/2

 
 (つづき)
 
 SSRIメーカーが日本の市場に参入するにあたり、大きな障壁として立ちはだかったのは文化的な問題だった。
 象徴的なのがdepression」と「うつ病」のギャップだった。
 
 日本において従来「うつ病」とは、基本的に重篤な症例を指していた。
 あくまで入院治療や長期治療を想像させる言葉だった。
 対する、英語の「depression」はもっと一般的で用途の広い言葉である。
 深刻な精神疾患も指す一方で、Kathryn Schulzの「Did Antidepressants Depress Japan?」という記事(⇒ リンク)の表現を借りるなら、好きな野球チームがペナントで負けてしばらく落ち込む場合なんかにも使われる。
 
 この差はたとえば入院期間にも反映されているといえるかもしれない。

 Schulzの記事によると、精神疾患の平均入院期間はアメリカでは10日以下なのに対し、日本ではなんと1年以上である。
 
 日本でのSSRI導入は、アメリカ、イギリスに比べ10年以上遅れている。
 この10年は、そうした文化的な差異を前に、導入を目論む人たちがした断念や逡巡に費やされたといえる。
 
 日本でSSRIの定着させるためには、日本の従来の「精神疾患」のイメージを変えることが、ぜひとも必要だった。
 別の言い方をすれば、「うつ病」を「depression」に近づける必要があった。
 Schulzの記事でもいわれるように、日本の「うつ病」観には、「軽度の」(mild)うつ病というものが含まれていなかった。
 それはほとんど先天性の不治の病を連想させた。
 だから、明確な症状、はっきりとした罹患の疑いがなければ、病院に赴くことなど選択肢にあがらなかった。
 
 SSRIメーカーが必要としたのは、もっと一般的にも話題にしやすく、薬によって症状を緩和することのできるうつ病観だった。
 「depression」のように、軽度の症例をも「うつ病」に含めて扱うことができれば、“潜在的な消費者”のパイを大きくすることができる。
 前回参照した冨高はこういっている。
SSRIの売り上げを伸ばすには、うつ病にかかったら病院に行くという意識を社会に根付かせることが必要となる。そして医療機関に受診してもらうには、何はともあれ、まず本人が病気に気づくことが必要なのである。そのためには「病気の啓発活動」を行う必要がある。(冨髙 2010: 75)
 そのため日本では、1999年以降、有名人がCM起用され、うつ病は誰でも罹患しうる身近なものだとのメッセージが発信されるようになった。
 
 Schulzも先の記事でいう。
軽度のうつ病は感染性ではないが、その言葉の根源的な意味合いにおいて、communicableだと見なすことができる。製薬会社とメディアは、過去5年にわたって、一貫したあるメッセージをcommunicateした。つまり、あなたの苦しみは病気かもしれない、と。
 このメッセージを広めること、れを目的に、製薬会社の啓発活動は展開された。
 
 折りしも、そうした新しいうつ病観にぴったりの表現が生まれた。

 それは「病気の啓発活動」にとって大変便利な表現だった。
 それが、「心の風邪」である。
 
 ウォッターズはいう。
GSK社が直面していた大きな問題は、日本の精神科医やメンタルケアの専門家がdepressionをいまだに「うつ病」と訳しているために、多くの日本人にとって、不治の先天的な病を連想させるということだった。この言葉の意味するものを和らげようとして、マーケティング担当者はきわめて効果的だとあとになってわかった、ある比喩を思いつき、うつ病を「心の風邪」と表現し、これを広告や販促資料のなかで繰り返し用いた。(Watters 2010=2013: 267
 「心の風邪」は、ちょうどタイムリーに話題になってもいる。
  
 マイク・ミルズ監督が撮った日本のうつ病に関するドキュメンタリー映画『マイク・ミルズのうつの話』が現在公開間近(10月19日)であり、同作では「心の風邪」がキーワードとなっているからである(⇒ 公式サイト)。

 というよりこの映画、そもそも原題が「Does Your Soul Have A Cold?」(心の風邪をひいていますか?)である(参考までに映画に関する記事:日本人の“心の風邪”の実態に迫る「マイク・ミルズのうつの話」予告公開)。
 
 「心の風邪」という表現の出所はどうもはっきりしないらしいが、新しいうつ病観を定着させるのに「きわめて効果的」だったことはたしかだ。
 ちなみにパキシル(商品名)の物質名「パロキセチン」のウィキペディアの記述にはこうある(⇒ リンク)。
軽症のうつ病を説明する「心の風邪」というキャッチコピーは、1999年に明治製菓が同社のSSRIであるデプロメールのために最初に用い、特にパキシルを販売するためのグラクソスミスクラインによる強力なマーケティングで使用された。 
 軽度のうつ病としての「心の風邪」。
 
 それは風邪のように、誰でもかかる可能性がある。

 それは風邪のように、症状を薬で抑えることができる。
 それは、ただし、風邪のように放っておくと、ひどいことになるかもしれない。
 
 だから病院へ行き、薬を処方してもらおう、というわけだ。
 
 
 
 疾患と製薬会社の啓発・販促活動との関係性についてはとくに欧米では、以前より問題視され検証されてきた。
 
 たとえば参考文献として、翻訳があるものだと、クリストファー・レーンの『乱造される心の病』や、より製薬会社の方にフォーカスしたマーシャ・エンジェルの『ビッグ・ファーマ』などがある(きちんと読めておりませんが・・・文末にリンクを貼っておきます)。

 もちろん、前回紹介した冨高さんの『なぜうつ病の人が増えたのか』も、読みやすく、かつ丁寧で、なにより安価なのでおすすめです。
 
 ウォッターズの本が素晴らしいと思えるのは、その議論の射程が、SSRIを売り込む製薬会社のマーケティング活動に限定されていないことだ。
 彼が語ろうとするのは、原著の副題「The Globalization of the American Psyche」にある通り、アメリカ流の精神疾患概念――もっといえば、「心」についての考え方――のグローバル化現象だ。
 第4章の例でいえば、アメリカ式のdepressionによるテイクオーバーだ。
 
 『クレイジー・ライク・アメリカ』の舞台は、いずれも西欧以外の国々ばかりである。
 題材もうつ病だけではない。
 第1章は香港における拒食症を、第2章はスリランカにおけるPTSDを、第3章はザンジバルにおける統合失調症を、事例として扱っている。

 当地には、それぞれ、「土着の」精神疾患の在り方と、それへの対処法があった。

 だが、アメリカの精神疾患概念(その明文化としての『DSM』)が輸入されることで、それらが変質する。
 ウォッターズが同書を通して描き出そうとするのは、この変質である。
 
 
 以上に書いてきたような問題は、すでに検証も進み、文献も多く出ている。
 前回から今回にかけては、それらをまとめるつもりで書きましたが、なんだか稀釈したような内容になってしまいました。
 また関連文献を読んで続編を書ければと思います。
 
 
 
 
 
 
 

2013/09/27

SSRIと心の風邪 part1

 
 イーサン・ウォッターズの『クレイジー・ライク・アメリカ』がおもしろかったので、今回はそれをもとにつらつらと。
 翻訳が今年の7月に出たばかりで、編注も付いているし、翻訳本にしてはリーズナブルだし、とても良い本だと思います。
 
 今回は、第4章「メガマーケット化する日本のうつ病」について
 
 日本でうつ病患者が増えていると言われる。

 たとえば、こちらの記事(西多昌規「薬漬け:現代医療の『サイド・エフェクト』」)を参考にさせてもらうと、2008年の日本の「うつ病・躁うつ病」の総患者数は、じつに1996年の2倍以上である。
 12年で2倍以上というのはなかなかの増加率に思える。
 おそらく、「うつ病」という疾患そのものが日本で一般に認知されるようになったのもこの時期だろう。
 
 患者急増の理由を推察するに、そうした病気の知識の普及が、これまで見過ごされてきた「患者」を掘り起こすことで、結果、患者数が増えたのだと思える。
 
 でも、こうした見方は、少なくとも事態のごく一部しか捉えていないようだ。
 というのも、うつ病患者の急増には、そうした認知の問題より遥かにはっきりした要因が他にあると指摘されているからだ。
 
 その要因とは、SSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)の登場である。
 
 
 
 日本を事例にこのことを明らかにしたのが、先の西多さんの記事でも引用されている、冨高辰一郎の『なぜうつ病の人が増えたのか』である。
 書名の通り、日本におけるうつ病患者増加の背景を探った本である。
 
 日本ではいつ頃からうつ病患者が増えたのだろう?
 冨高は、いくつかのデータからその時期を1999年頃と見積もる。
 
 これまでうつ病患者の増加は、しばしば経済不況が背景にあると説明されてきた。
 不況を背景としたストレスの増加が要因だと。
 
 冨高はしかし、この説は説得的でないとする。
 日本では経済不況とうつ病患者の増加の時期が微妙にズレている(英国だともっとズレている)からである。
 
 では、より説得力のある要因と考えられるものは何か?
 それが、SSRIの販売開始である。
 日本では1999年にデプロメール/ルボックスが、翌2000年にはパキシルが市場に導入された。
 
 「SSRIの導入」、そして「うつ病患者の増加」。
 ただ起きたことを順に記せばこうなる。
 「導入」のあとの「増加」は果たして偶然だろうか?
 
 冨高は偶然ではないと答える。
 なぜならこの現象は、日本以外の先進国でも観察される非常に再現性の高い現象だからだ。
 「米国、英国、フランス、カナダ、ドイツ、イタリア、スウェーデン、デンマーク、ノルウェイ、フィンランド、アイスランド、オーストラリア」(冨髙 2010: 60)でも同様の現象が確認できると冨高はいう。
 SSRIの市場導入は、必ずといってよいほど、当該国におけるうつ病患者の増加をもたらす。
 冨高はそれを「SSRI現象」と呼ぶ。
 
 問題は、なぜSSRI現象が起きるのか、である。
 普通に考えて、うつ病に効果的と謳われる治療薬が販売されれば、患者数は減るはずではないか。
 もしかしてSSRIにはまったく効果がないのか。
 しかし仮に万が一そうだとしても、なぜ患者数が増えるのだろうか。
 
 冨高が注目するのは、製薬会社による「病気の啓発活動」である。
 
 
 
 『クレイジー・ライク・アメリカ』に戻ろう。
 第4章で描かれるのも、そうした「病気の啓発活動」の諸相である。
 
 関係者へのインタビューを交えながら、とくにGSK社(グラクソ・スミスクライン株式会社)が日本で「パキシル」を売り出すにあたってどのような活動を行ったかをウォッターズは記述している。
 (ただし1999年にはこだわってはいない。)
 
 たしかに、治療薬を商品とする企業にとって需要の開拓とは、病気・患者の開拓を意味するだろう。
 そうした開拓が、過剰で強引なものに思えるとき、近年になって、それは「disease mongering」(病気の押し売り)などとして批判されてきた。
 例としてADHDや男性型脱毛、性機能障害などが挙げられる。
 日本ではたしかメタボリック症候群」がこの文脈から批判された。
 
 参考までに、disease mongeringについて書かれた論文としては以下のものがあります。

  • Moynihan, Ray, Iona Heath, and David Henry, 2002, "Selling Sickness: The Pharmaceutical Industry and Disease Mongering," British Medical JournalApril 13; 324(7342): 886–891. (⇒ リンクはこちら
 
 GSK社、および日本でSSRI市場の拡大を目指す人びとがしようとしたのは、何か?

 それは、大袈裟にいえば、日本の精神疾患概念を書き換えることだ。
 
 
 というところまでで、ちょっと長くなりそうなので、いったん閉じます。
 
  
 ※冨高さんの本はkindle版が安いです。
 
 

2013/09/16

『すばらしい新世界』と『島』 part2/2

  
 (つづき)
 
 Schermer によれば、向精神薬の「コスメティック」な利用に関する倫理的な議論において、現状、一般的には、『新世界』的な悲観論が優勢であるという
 
 なぜ悲観論が優勢になるのか?
  
 1つのありうる回答として、『新世界』の方が『島』よりも現代社会の実態に即しているから、というものが挙げられる(私もそう思った)。
 つまり、『新世界』の方が真に迫っている以上、向精神薬の利用を危惧する見方、ディストピア的な見方が前景化したとしても不思議ではない、というわけである。
 対する『島』のユートピアは非現実的だと。
 
 だが Schermer はこれに異を唱える。
 具体的な論拠はここでは省くが、『新世界』も『島』もその(非)現実性において大差ないという
  
 いや、もっといえば、重要なのは、どちらがよりリアルなのかを判定することではない、と Schermer はいう。
 いわく、「それらの小説を読むうえでポイントとなるのは、それらの小説が、物事がどのようであるかを示すことではなく、それらの小説がどのようでありうるか、私たちがそれらをどのように捉えるかを示すことである」(Schermer 2007: 125)。
 
 重要なのは、小説的イマジネーション(の正否)ではない。

 それらの小説がもつ、私たちの社会・時代にとっての意味――それらの小説のどの部分が、なぜ、どのように議論を喚起するのか、である。
 
 であるならば、ネガティヴな側面ばかりが強調されがちな現状に鑑みるに、向精神薬の利用のポジティヴな側面を吟味するような議論をもっと展開してもよいのではないか。
 これが Schermer の提案である。
 
 
 
 向精神薬をめぐる倫理的問題を検討するうえで、Schermer は、『新世界』や『島』が何を描いているかよりも、(私の表現でいえば)何を描いていないかに注目している。
 この重要な前提をスキップすれば、私たちを待ち受けるのは性急な結論だけだ。
 
 Schermer が注意を喚起するのは次の2点である。

 「完全なコントロールの不可能性」と「幸福や生き方についての価値観の多元性」である。
 このいずれも、現実と照らし合わせたときに、両小説から抜け落ちている視点である。
  
 Schermer によれば、薬の価値や機能というものは、それが根づいている社会に大きく依存している。
 それらは私たちの価値観の反映であり、当然、社会によって、また時代によっても変化する。
  
 とはいえ他方で、私たちが新しい薬の価値や機能を完全にコントロールすることも、また不可能である。
 薬の開発・流通・普及・実際の使用方法などには、常に不測の事態がつきまとっている。
 
 だが、こうした現実があるにも関わらず、まさにこの点を、『新世界』や『島』が捨象していることを私たちはつい気にせず素通りしてしまいがちだ。
 このことはまた、『新世界』や『島』が1つの価値観によって統一されていることと関係している。
 
 いや、たしかに両小説は、それぞれまったく異なる価値観によって覆われている。
 一方はディストピアを、他方はユートピアを描出している。
 しかし、それらは、ただ1つの価値観によって覆われているという点においては、明確に共通している。
 
 『新世界』や『島』において幸福や生き方についての価値観は、現実に比べ遥かに硬直的である。

 そこに「反対派はほとんど存在しない」Schermer 2007: 126)
 
 この価値多元性の欠落は、小説内世界が完全にコントロールされているのと表裏一体である。
 Schermer は、この「完全なコントロール」と「価値多元性の欠落」という、まさにそれ自体フィクショナルな前提が、しかしそのまま、向精神薬の「コスメティック」な利用に反対する保守派(たとえばレオン・カス)の議論のなかに移植されていることを指摘する。
 
 彼らは、完全な統制など現実的でないことや、そのことがむしろ歓迎すべきことであることをなぜだか忘れてしまっている。 

 そうした重要な前提を欠いたうえでの危惧や反対は、Schermer からすれば、杞憂にすぎないというわけだ。
 
 Schermer は、論文をこう締めくくる。
 小説は、たしかに向精神薬とその可能性について私たちがどう考えたらよいかを考えるのに有用である。
 だがそれに拘泥すべきではない、と。
 
 
 
 向精神薬の価値や機能に関してポジティヴな可能性を探ろうとする Schermer の提案には、たしかに同意できるような気がする。
 
 ただ、まだ、うまく飲み込めていない面もある。
 それはどちらかといえばSchermer への批判ではなく、自分自身の問題意識として。
 
 気になっているのは、今回のような議論と、医療社会学などでしばしば話題にされる「disease mongering」(病気の押し売り)の問題との関連についてである。
 
 つまり、私たちは押しつけられた「病気」や「能力不足」を補ってまで製薬会社を潤す必要があるのだろうか、という疑問について、Schermer ならばどう答えるだろうか。
 それも1つの可能性、1つの価値観というだろうか。
 
 別の言い方をすれば、フランシス・フクヤマやレオン・カスではなく、たとえばデイヴィッド・ヒーリーらの見解について Schermer はどう考えるのだろう。
 ヒーリーもまた、フクヤマらとは別の立場からではあるが、当該問題に関してネガティヴな見解を示しているといえるからだ。
 

 この辺りはまだ整理できていないので、引きつづき考えていきたいところです。
 (あまりこうした「倫理」の議論は得意ではないのですが・・・)
 
 
 最後に、今回の論文を知ったのは、以下の論文で参照されていたからです。
 Dan J Stein (2012) "Psychopharmacological Enhancement: A Conceptual Framework," Philosophy, Ethics, and Humanities in Medicine, 7: 5.(⇒ こちらで読めます)
 
 あと、今回の論文で参照されていて気になった本を1冊、紹介しておきます。
 ピーター・D・クレイマーが序文を書いているようです。
 もしご興味の方がいれば・・・。
 
 では。
 
 

 
 
 

2013/09/10

『すばらしい新世界』と『島』 part1

 
 4ヶ月放置ののち、ぬるっと再開。
 
 M. H. N. Schermer の2007年の論文 "Brave New World versus Island: Utopian and Dystopian Views on Psychopharmacology" (Medicine, Health Care and Philosophy 10: 119–128) について。
 いわゆるニューロエシックス分野の論文で、向精神薬(たとえば抗うつ剤)の「コスメティック」な利用が投げ掛ける倫理的な問題について議論している。
 
 こちらで読めます。
  
 
 
 この論文で著者の Schermer は、イギリス出身の作家オルダス・ハクスリーの2つの小説の比較を試みている。
 1つは、代表作『すばらしい新世界』(Brave New World, 1932)。
 これはバイオエシックスやニューロエシックスの議論、エンハンスメントをめぐる議論のなかでよく引き合いに出される、定番の作品である。
 
 Schermer のアイディアは、それを、それとはまた別の作品、ハクスリー最晩年の、『島』(Island, 1962)と対比させようとするものである。
 こちらは『新世界』よりは格段に知名度は下がり、上述のような議論においてもめったに取りあげられることはない。
 (ちなみに関係ないけど、『島』の表紙はとても可愛い。)
 
 なぜ『新世界』と『島』を対比させようというのか?

 それは、両小説にそれぞれ対照的なかたちで、印象深い薬物が登場するからである。
 
 『新世界』には、「ソーマ」(soma)と呼ばれる薬物が登場する。

 それは、副作用なく人びとに活力と気晴らしを与える万能薬である。
 
 よく知られるように『新世界』は、徹底的な管理社会、一種のディストピアを描いている。
 これに対して『島』で描かれるのは、逆に、ユートピア的な共同体である。
 Schermer がいうように、それは、『新世界』の「正の鏡像」である。
 
 『島』の舞台は、インド洋上の小島「パラ」(Pala)である。

 登場人物や設定などについては割愛するが、パラの共同体にとって重要な薬物は「モクシャ薬」(moksha-medicine)と呼ばれる。
 それは啓示や霊感を与える作用をもつ。
 人びとは、それがもたらす神秘体験を通じて「現実」や自分自身の「本当」の姿を悟る。
 
 人間性やパーソナリティを剥奪するかのようなテクノロジカルな統制の道具としてのソーマとは異なり、モクシャ薬は、「真の」人間性・パーソナリティの獲得に役立つものとして描かれる。
 Schermer の表現を借りれば、前者が「alienation」を象徴するのに対し、後者は「revelation」を象徴する。

 ソーマもモクシャ薬もどちらもその「社会」(?)の維持にとって欠かせないアイテムである。

 この点に違いはない。
 だが、維持の対象がディストピアであるかユートピアであるかに大きな違いがある。
 
 ◆

 
 【『新世界』・ディストピア・ソーマ】対【『島』・ユートピア・モクシャ薬】という際立った対立を、Schermer は、ニューロエシックスでおなじみの倫理的論争に重ね合わせる。
  
 キーワードは「真正性」(authenticity)である。
 
 すでに述べたように、『新世界』は、エンハンスメント関連の議論のなかでよく引き合いに出される。
 それは、現代のバイオテクノロジーの在り様(とそれが提起する問題)の一部が、見事に『新世界』に活写されているからである。

 そして、多くの論者が、現代世界は、まさしく『新世界』的な「ディストピア」に近づきつつあるのだという不安や危惧を表明する文脈において、この小説に言及してきた。

 
 たとえばフランシス・フクヤマは『人間の終わり』(Our Posthuman Future)の冒頭でこう述べている。
本書の目的は、ハクスリーの『すばらしい新世界』が正しいと論じること、現代バイオテクノロジーが重要な脅威となるのは、それが人間の自然本性を変え、我々が歴史上『ポストヒューマン』の段階に入るかもしれないからだ、と論じることである。(Fukuyama 2002=2002: 9)
 彼がこの本で強く訴えようとしているのは、バイオテクノロジーの規制である。
 
 薬でエンハンスメントされた能力など「人間的」な能力とはいえない。
 それは、人工的な、造られた、自然でない、偽の能力に過ぎない。
 ほら、『新世界』で描かれているように。
 というわけだ。 
 
 だが、と Schermer はいう。

 
 その薬の作用による状態が「偽物の」「非真正な」状態なのだとても、では、人間として「本物の」「真正な」状態とは一体どのような状態だというのか?
 何もしない「自然」な状態がそうなのか?
 フクヤマのいう「人間の自然本性」は、何もしないことを意味するのか?
 
 Schermer はいちいち分けたりしていないが、ここには2つ、問題があるように思う。
 1つは、人間として真正な状態、あるいは本当の自分とは、果たしてどのような状態を指すのかという問題。
 もう1つは、真正な状態や本当の自分へと至る経路・手段に、正しい/正しくないはあるのかという問題である。
 
 前者の問いに正面から答えることはできない。
 いや、答えることができない、ということをまず確認すべきである。
 
 Schermer は次のことを指摘する。
 本当の自分とはどこかに存在している静的なものではなくて、 「なる」(becoming)という動的なプロセスにおいて生じるものである、
 この点で「自己発見」は「自己形成」と同内容である。 
 
 では、自己形成の手段に正否はあるのか?
 たとえば「正しくない」とされる薬物によって形成された人間は「本当」の人間ではないのだろうか?
 
 Schermer はそんなことはないと答える。
 
 現代人の自己形成には、好むと好まざるとに関わらず、さまざまなテクノロジーが与っている。
 アーミッシュのような人びともいるにはいるが、多くの人びとにとって、テレビやインターネットなどは(もしかしたら冷蔵庫や自動車だって)大なり小なり自己形成に関わっているはずだ。
 しかし、そのうち、どのテクノロジーが「自然」で「真っ当」であり、どのテクノロジーが「不自然」で「紛い物」などと誰がいえるのだろうか?
 
 
たとえ「本物でない」とされる経験からも人は学び、成長しうることがある。
 (これこそ『宗教的経験の諸相』のテーマではないか。)
 『島』はそれを描いていると読める。
 
 『新世界』に比べたら圧倒的に、『島』はこれまで言及されてこなかった。
 Schermer は、まさしくこの点に、エンハンスメントの倫理的議論における、ある種、構造的な視点の欠落が、つまり、「本物でない」とされる経験からも人は学び成長しうることがあるという視点の欠落が現われていると指摘する。
 
 
 今回はここまで。

 次回(があれば)、自分なりの疑問点をまとめてみたい。
 あと、美容整形の問題として考えなおしてみると、またおもしろいかもしれないなと思いました。
 
 

 
 
 
 

2013/05/06

「68年」が遺したもの part1


 「1968」は、厄介だ。


 「1968」について何か言おうとすると過小評価か過大評価かのいずれかになってしまうような気さえする。

 いや、こういう言い方自体、ある種、68年の特権化にも思える...。
 
 だがそれでもやはり、あの時代には良くも悪くも“何か”があったのだ、と言いたくなる。
 私のように、そのときまだ生まれていない人間でさえも。
 そして、その“何か”の一因が、単純に、絶対的な「若者」の数の多さにあったのだとしても。

 「1968」は、多くの研究者――とくに、当時まさに「若者」だった研究者――にとって、さまざまな意味でインフルーエンシャルだ。

  
 たとえば前々回言及した The Romantic Ethic and the Spirit of Modern Consumerism の Introduction で著者のコリン・キャンベルは、同書の着想の出発点に自らが学生時代に体験した「対抗文化」があることを書き留めている。
 (たしかクラウス・テーヴェライトも、うろ覚えだけど、『男たちの妄想』でそんなようなことを書いていたような...)
 
 人文社会科学系ばかりではない。
 まえにプロテスタンティズムの倫理と功利主義の精神 part3」の回でふれたように、それは、量子力学の発展にとってもクルーシャルな役割を果たした。

 「1968」が現在の私たちの生に影響を与えている。

 問題は、それをどう捉えるかだ。
 
 Jeremy Gilbert は、2008年の論文「After ’68: Narratives of the New Capitalism」で、この問題に取り組んでいる。
 New Formations 65: 34-53 に載っています(PDFはこちら)。

 「1968」の影響を、どう見るか?


 もちろん、それには、2つの見方がある。

 つまり功と罪、どちらをより重く見るかだ。
 
 一方には、その「負」の遺産を重視する見方があり、他方には、「正」の遺産を重視する見方がある(ギルバートがこういう表現を使っているわけではないが)。
 前者は、「1968」の叛乱の帰結を、その後の「個人主義」や「消費主義」の蔓延に結びつけ、ややシニカルに捉える。
 わりとよく目にする意見だ。
 後者はしかし、それでもなお、彼らの叛乱によって、決して十分とはいえないにせよ、たしかに達成されたものもあるはずだ、と希望を見る。
 
 当否はおくとして、ギルバートは、前者にあたるのがクリストファー・ラッシュであり、後者にあたるのがアントニオ・ネグリであるという。

 私個人は前者の見方に近いけど、後者の見方もわからないではない。


 ギルバートはいう。

 「2008年の資本主義と1968年の資本主義は、まったくの別物である。そしてその違いは、多くの点で、60年代後半のラディカルな要求によって予示されたものだ」、と(Gilbert 2008: 35)。

 つまり、「2008」と「1968」は、その資本主義の性質――次回、それを「精神」と呼ぶことになるだろう――において、断絶している。

 だが、「1968」の若者たちが前の世代に反抗し言祝いだ(たとえば)労働観が、「2008」に受け継がれている点においては、両者は地続きだともいえる。

 この「連続性」と「不連続性」。


 「1968」が厄介な、その大きな理由のひとつは、ここにあると思う。


 つづく。



※Kindle版、安いですね。