(つづき)
結果は、予想を裏切るものだった。
衝動志向の労働者よりも、制度志向の労働者の方が、感情管理と〈ほんものじゃなさ〉の感覚を関連づけていることが明らかになったからだ。
アンケート調査の結果として、まず、感情管理と〈ほんものじゃなさ〉の感覚との間には相関が見られることが確かめられた。
やはり感情労働は一定の〈ほんものじゃなさ〉の感覚をもたらす、と。
これは従来の指摘通りである。
加えて、その両者の関係が、Turnerの「自己概念の拠点」に、すなわちその人がリアルセルフをどこに置くかによって左右されることも示された。
つまりTurnerのリアルセルフ論は感情労働の解明に寄与しうる、と。
これもSloanの目論見通りである。
ここまではいい。
問題はその左右のされ方である。
結果は、衝動志向よりも制度志向の人の方が〈ほんものじゃなさ〉と強い関連性をもつことを語っている。
なぜ、状況や役割に応じて感情が統制されるときにこそ自己の本物らしさを見出す制度志向の人たちが、仕事中に〈ほんものじゃなさ〉をより感じるのだろうか。
仕事をしている自分こそが本当の自分ではなかったのか。
この矛盾を、Sloanは、仕事中に経験する感情の中身の点から説明しようとする。
衝動志向の人が感情管理を通じた〈ほんものじゃなさ〉をあまり感じないのはなぜか?
Sloanはこう考える。
それは彼・彼女らがそもそも、勤務中の自分に本物らしさを感じ(ることを期待し)ていないからだ、と。
ゆえに相対的に、感情管理のもつ意味が小さく(meaningfulでなく)なるのだろう、と。
制度志向の人たちは、仕事をしているときの自分に本物らしさを感じる。
だが、そのときの感情の中身をSloanは問題にする。
つまり、制度志向の人たちが本物らしさを感じるのは、仕事中でも、とくにポジティブな感情(例:幸せ)を経験しているときのはずだ、と。
さすがにネガティブな感情(例:苛立ちや不安)を経験するときには〈ほんものじゃなさ〉を感じるに違いない。
感情管理はそういうときにこそ必要になる。
衝動志向の人にとっては、仕事中にポジティブな感情を経験することなどはじめから期待されない。
ネガティブな感情を経験することも想定内だ。
ことさらマイナスでもない。
むしろ仕事中にネガティブな感情を経験することは、衝動志向の自己の論理に照らして一貫性がある。
だから〈ほんものじゃなさ〉を感じにくい、とSloanは考える。
他方、制度志向の人にとっては、ネガティブな感情の経験は大きなマイナスを意味するだろう。
仕事中のポジティブな感情の経験がauthenticityと強く結びついているからだ。
陽が強ければ、陰もまた濃くなるというわけだ。
Sloanはこう推論し、実際、追加分析の結果はこの見方を支持している。
以上のことはまた、こう一般化して考えることができる。
〈ほんものじゃなさ〉を感じるか否かは、感情管理の状況よりも先に、経験する感情の中身(ここではポジティブかネガティブか)に左右されるのだ、と。
[追加分析の]以上の結果は次のことを示している。勤務中に経験される非真正性がどの程度になるかは、たしかに自己概念の拠点に依存する。が、(・・・)自己概念の志向性が問題となるのは、感情管理の評価よりも、まずは感情経験の解釈においてである。(Sloan 2007: 315)こうしてSloanは、仕事中の〈ほんものじゃなさ〉の解明にとって自己概念の拠点、ならびに感情経験の意味というファクターが重要であることを示した。
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以上、Sloanの論文の流れをたどってきた。
この論文は、感情労働とそこで経験される〈ほんものじゃなさ〉の感覚の関係を解明することが本筋であって、Turnerの枠組みそれ自体の検討を目指したものではない。
けれど、Turnerを参照する際には、経験される感情の種類や意味についても考慮する必要があるということを示している点で重要に思える。
たとえば「制度的な場面において、とくにどのような感情を経験するときにリアルセルフを感じるのか」とか「どのような種類の衝動を制限されたときリアルセルフではないと感じるのか」とか。
上記の、予想外の結果に対するSloanの説明にはどことなくすっきりしない面もありますが、そもそもデータの読み取り方にあんまり自信がもてないし、話をTurnerに戻したいので、その点は掘り下げないことにします。
次回は、Turnerに戻るか、Sloanが参照するGordonの論文について書く予定です。
(つづく)