2013/09/16

『すばらしい新世界』と『島』 part2/2

  
 (つづき)
 
 Schermer によれば、向精神薬の「コスメティック」な利用に関する倫理的な議論において、現状、一般的には、『新世界』的な悲観論が優勢であるという
 
 なぜ悲観論が優勢になるのか?
  
 1つのありうる回答として、『新世界』の方が『島』よりも現代社会の実態に即しているから、というものが挙げられる(私もそう思った)。
 つまり、『新世界』の方が真に迫っている以上、向精神薬の利用を危惧する見方、ディストピア的な見方が前景化したとしても不思議ではない、というわけである。
 対する『島』のユートピアは非現実的だと。
 
 だが Schermer はこれに異を唱える。
 具体的な論拠はここでは省くが、『新世界』も『島』もその(非)現実性において大差ないという
  
 いや、もっといえば、重要なのは、どちらがよりリアルなのかを判定することではない、と Schermer はいう。
 いわく、「それらの小説を読むうえでポイントとなるのは、それらの小説が、物事がどのようであるかを示すことではなく、それらの小説がどのようでありうるか、私たちがそれらをどのように捉えるかを示すことである」(Schermer 2007: 125)。
 
 重要なのは、小説的イマジネーション(の正否)ではない。

 それらの小説がもつ、私たちの社会・時代にとっての意味――それらの小説のどの部分が、なぜ、どのように議論を喚起するのか、である。
 
 であるならば、ネガティヴな側面ばかりが強調されがちな現状に鑑みるに、向精神薬の利用のポジティヴな側面を吟味するような議論をもっと展開してもよいのではないか。
 これが Schermer の提案である。
 
 
 
 向精神薬をめぐる倫理的問題を検討するうえで、Schermer は、『新世界』や『島』が何を描いているかよりも、(私の表現でいえば)何を描いていないかに注目している。
 この重要な前提をスキップすれば、私たちを待ち受けるのは性急な結論だけだ。
 
 Schermer が注意を喚起するのは次の2点である。

 「完全なコントロールの不可能性」と「幸福や生き方についての価値観の多元性」である。
 このいずれも、現実と照らし合わせたときに、両小説から抜け落ちている視点である。
  
 Schermer によれば、薬の価値や機能というものは、それが根づいている社会に大きく依存している。
 それらは私たちの価値観の反映であり、当然、社会によって、また時代によっても変化する。
  
 とはいえ他方で、私たちが新しい薬の価値や機能を完全にコントロールすることも、また不可能である。
 薬の開発・流通・普及・実際の使用方法などには、常に不測の事態がつきまとっている。
 
 だが、こうした現実があるにも関わらず、まさにこの点を、『新世界』や『島』が捨象していることを私たちはつい気にせず素通りしてしまいがちだ。
 このことはまた、『新世界』や『島』が1つの価値観によって統一されていることと関係している。
 
 いや、たしかに両小説は、それぞれまったく異なる価値観によって覆われている。
 一方はディストピアを、他方はユートピアを描出している。
 しかし、それらは、ただ1つの価値観によって覆われているという点においては、明確に共通している。
 
 『新世界』や『島』において幸福や生き方についての価値観は、現実に比べ遥かに硬直的である。

 そこに「反対派はほとんど存在しない」Schermer 2007: 126)
 
 この価値多元性の欠落は、小説内世界が完全にコントロールされているのと表裏一体である。
 Schermer は、この「完全なコントロール」と「価値多元性の欠落」という、まさにそれ自体フィクショナルな前提が、しかしそのまま、向精神薬の「コスメティック」な利用に反対する保守派(たとえばレオン・カス)の議論のなかに移植されていることを指摘する。
 
 彼らは、完全な統制など現実的でないことや、そのことがむしろ歓迎すべきことであることをなぜだか忘れてしまっている。 

 そうした重要な前提を欠いたうえでの危惧や反対は、Schermer からすれば、杞憂にすぎないというわけだ。
 
 Schermer は、論文をこう締めくくる。
 小説は、たしかに向精神薬とその可能性について私たちがどう考えたらよいかを考えるのに有用である。
 だがそれに拘泥すべきではない、と。
 
 
 
 向精神薬の価値や機能に関してポジティヴな可能性を探ろうとする Schermer の提案には、たしかに同意できるような気がする。
 
 ただ、まだ、うまく飲み込めていない面もある。
 それはどちらかといえばSchermer への批判ではなく、自分自身の問題意識として。
 
 気になっているのは、今回のような議論と、医療社会学などでしばしば話題にされる「disease mongering」(病気の押し売り)の問題との関連についてである。
 
 つまり、私たちは押しつけられた「病気」や「能力不足」を補ってまで製薬会社を潤す必要があるのだろうか、という疑問について、Schermer ならばどう答えるだろうか。
 それも1つの可能性、1つの価値観というだろうか。
 
 別の言い方をすれば、フランシス・フクヤマやレオン・カスではなく、たとえばデイヴィッド・ヒーリーらの見解について Schermer はどう考えるのだろう。
 ヒーリーもまた、フクヤマらとは別の立場からではあるが、当該問題に関してネガティヴな見解を示しているといえるからだ。
 

 この辺りはまだ整理できていないので、引きつづき考えていきたいところです。
 (あまりこうした「倫理」の議論は得意ではないのですが・・・)
 
 
 最後に、今回の論文を知ったのは、以下の論文で参照されていたからです。
 Dan J Stein (2012) "Psychopharmacological Enhancement: A Conceptual Framework," Philosophy, Ethics, and Humanities in Medicine, 7: 5.(⇒ こちらで読めます)
 
 あと、今回の論文で参照されていて気になった本を1冊、紹介しておきます。
 ピーター・D・クレイマーが序文を書いているようです。
 もしご興味の方がいれば・・・。
 
 では。