2013/11/30

リアルセルフ論 part2

 
 (つづき)
 
 今回は参考文献の紹介だけ。
 ざっと。
 
 前回の終わりの方でターナーの論文(の頭の部分)に対して疑問に思ったことを書いた。
 けど、それらの疑問は実は他の論文でいくらか答えられてもいる。
 
 このことを先に言っておかねば、と思いまして。
 
 たとえばターナー自身、下記の論文で、自らのリアルセルフ論を「True Self Method」という方法を用いることでデータ的に裏付けている。
 ここで「制度から衝動へ」という説は大枠で支持されている。
  
 Turner, Ralph H., and Jerald Schutte, 1981, “The True Self Method for Studying The Self-Conception,” Symbolic Interaction, 4(1): 1–20.
 
 またその翌年(ターナーの「リアルセルフ」論文からほぼ10年後)に発表されたスノーとフィリップスの論文でも、ターナーの説が再検証されている。
 この論文でも、学生を対象としたテストによって「制度から衝動へ」という説は概ね支持されている。
 
  Snow, David A., and Cynthia L. Phillips, 1982, “The Changing Self-Orientations of College Students: From Institution to Impulse,” Social Science Quarterly, 63(3): 462-76. 
 
 つまりターナーの説は、後からにせよ、それなりに裏付けが得られているということである。
 
 これら2つの論文がおもしろいのは、「制度から衝動へ」の、さらにその先にふれている点である。
 いずれにおいても示されるのは、「衝動的自己」が二分化する見解である。
 これについてはまたちゃんと論文を読み直してから書きます(きっと)。
 
 もともとこれらの論文については、前回のターナーの論文をひととおり紹介したのち、それを受けてこういう論文もありますよ、という形で読み直しつつ書こうと思っていた。
 けど、それだと遅くなるし書けなくなるかもしれないので、先に紹介だけしてしまうことにしました。
 前回のターナーの論文が単に思弁を弄しているだけ、と思われてもいけないので。
 
 
 
 あと日本語文献も紹介しておきます
 これらも同じように、ちゃんと読み直してから書くつもりだったけど、先に紹介だけ。
 
 ターナーの説をめぐっては片桐雅隆先生がいくつかの著作のなかで丁寧にレビューされています。
 というかこれでターナーのことを知りました。
 
 確認しているものを列挙するとこんな感じです。
 
  『意味と日常世界――シンボリック・インタラクショニズムの社会学』(1989年)・・・第6章
  『変容する日常世界――私化現象の社会学』(1991年)・・・第4章
  自己と「語り」の社会学――構築主義的展開』(2000年)・・・第4章・第7章
  『自己の発見――社会学史のフロンティア』(2011年)・・・第4章

  
 
 もしリアルセルフ論が気になった方はぜひこちらをご覧ください。
 スノーとフィリップスの論文についても書かれています。
 
 あともう1つだけ。
 最近見つけました。
 
  船津衛『自分とは何か――「自我の社会学」入門』(2011年)・・・第4章
 
 
 

 船津先生は他に、G.H.ミードについて多く研究書を出されています。
 
 
 というわけで、今回はこんな感じで。
 参考文献の紹介でした。
 
 (つづく)
 
 

2013/11/26

リアルセルフ論 part1

 
 2ヶ月放置・・・。
 週一更新のつもりが、月一もままならず。
 
 今回は「リアルセルフ論」について。
 
 本当の自分。
 ・・・なかなか思春期感あふれる題材です。
 
 リアルセルフという題材はこれまでちらほらと議論されてきているが、今回取りあげるのはそのなかでもわりと早い時期に発表されたものだと思う。
 取りあげるのは、Ralph H. Turner1976年に発表した、ずばり「The Real Self: From Institution to Impulse」という論文。
 American Journal of Sociology, Vol. 81(5): 989-1016に載ってます。
 あとでもう1本、流れで別の論文も取りあげます
 
 著者のターナーは、アメリカの社会学者です。
 今回の内容でいったら社会心理学者といってもいいかもしれない。
 
 
 
 人は「本当の自分」をどこに見出すのだろうか。
 
 会社や学校にいるときの自分だろうか、パートナーといるときの自分だろうか、ゆっくりお風呂に浸かっているときの自分だろうか、ギターをかき鳴らしているときの自分だろうか、ああでもないこうでもないとブログを書いているときの自分だろうか。
 
 たとえば酔っぱらっている自分は通常本当の自分とは見なされない。
 酒席では普段は絶対言わないようなこと、あとから撤回したくなるようなことをつい口走ってしまったりする。
 けど、それは、ときに「本音」と呼ばれたりもする。
 酒の力を借りてぶっちゃける、なんてこともある。
 
 あるいは、化粧はどうだろう?
 メイクアップした自分が本当の自分? いやいや、すっぴんが?
 
 本当の自分はどこにあるのか。
 どこに見出すのか。
 ターナーはその場所のことを「locus of self」「self-locus」(自己の地点)とか、「self-anchorage」(自己係留地?)などと表現する。
 セルフという船は方々に航海に出るけれども、必ず母港に帰り、錨をおろす。
 いわばその母港が、リアルセルフの場所だ。
 
 ターナーは、そのリアルセルフの力点が、総じて、(サブタイトルにある通り)「制度」(institution)から「衝動」(impulse)へとシフトしたと主張する。
 これが論文の核となる主張である。
 
 本当の自分が「制度」ないし「衝動」に位置づけられるとは、どういうことだろう?
 一見わかりにくいが、ターナーによれば、こういうことである。

 制度にリアルセルフを位置づける人は、集団・組織・社会における役割や義務を遂行する自分に本当の自分を見出す。
 衝動にリアルセルフを位置づける人は、自然な、自発的な感情・意志・欲望に本当の自分を見出す。
 
 ここではあえて前者を「制度的自己」、後者を「衝動的自己」と呼ぼう。
 厳密には論文中では、「under the institution/impulse locus, ...」だとか「the self as institution/impulse」だとか、とくに定句のないまま議論が進行するが、ここでは煩わしいので形式的に書いてしまおう。
 
 日本語としてのわかりにくさはあるが、考えてみれば、確かにこういう2つの自己の在り方があるというのは実感として理解しやすい。
 ぴったり一致するわけではないが、たとえば仕事中の自分と余暇中の自分、あるいはpublicな自分とprivateな自分、どちらにリアルセルフの重心を置くかの違いだと考えるとイメージしやすい。
 
 以下、ターナーに従いながら、さらに細かく、ときに言葉を補いつつ、両者の違いを見ていこう(Turner 1976: 992-5)。
 
 (1) 第一に、両者は従う対象の点で異なる。つまり、制度的自己がある基準に忠実に従って行動する一方で、衝動的自己は、それを自発的にしたいかどうかという願望に準ずる。
 (2) 第二に、制度的自己にとって真の自己とは「獲得」され「到達」される何かであるのに対し、衝動的自己にとっては「発見」される何かである。
 (3) また第三に、制度的自己にとり、真の自己は、高いコントロール下において現われるものであるのに対し、衝動的自己の場合は、制御が外れたときにこそ現われる。
 (4) 第四として、「偽善」の捉え方も異なる。制度的自己にとって偽善とは規範に沿って行動できなかった事態である。衝動的自己にとっては、むしろ規範に固執するあまり思いとは裏腹に行動してしまうことが偽善である。
 (5) また第五に、どのような「演技」を素晴らしいと見なすかの点でも異なる。制度的自己の観点から好ましいのは、隙のない技術的に洗練された演技である。衝動的自己の観点からは、演技者の弱さが顕わになるような演技にこそ価値が置かれる。
 (6) 第六に、制度的自己は未来自制で語られるのに対し、衝動的自己は現在時制で語られる。前者において「到達」されるべき自己は、現在の自己の時間的な延長線上にある。が、後者において「発見」されるべき自己は、現在の自己とは別のどこか、いわば空間的な延長線上に存在する。
 (7) そして最後に、第四の偽善と同様、「社会的圧力」に対する考え方も異なる。制度的・衝動的いずれの場合でも、社会的圧力は、真の自己への道程の障壁となる。だが制度的自己にとってそれは個人的また社会的な基準からの逸脱を唆す、足の引っぱり合いのようなものを意味し、衝動的自己にとっては意志に反する義務や禁止事項を指す。
 
 
 以上が、2つの自己に関するターナーの説の素描である
 
 なるほど感覚的にはよくわかる。
 これはターナーが、衝動的自己への重心移動と、彼自身が同時代的に目撃してきた対抗文化の到来とを結びつけていることを考え合わせると、よりピンときやすい。
 
 上の(3)の説明の中で、ターナーはドラッグやアルコールに言及している。
 つまり、そうした酩酊物質は、制度的自己にとり真の自己を見失わせる脅威であるのに対し、衝動的自己にとっては真の自己を発見するための助けとなる、と。
 衝動的自己にとり酩酊物質はポジティヴなものとして捉えられている。
 
 この説明からは、やはり当時流行したドラッグ文化を想起せずにはいられない(ターナー自身はドラッグ文化そのものについては特段ふれていないが)。
 実際、この文化に特徴的に見られたのは、ハイになっている自分こそが本当の自分であるというような考え方であった。
 たとえばそれは、ドラッグ文化のバイブル『知覚の扉』にも見られる。
 同書でオルダス・ハクスリーが自らの体験をもとに語ったことの1つは、次のことだった
 幻覚体験が見せるものこそが「世界の真の姿」である、と。
 
 ハクスリーによれば(このブログ、やたらとハクスリーに言及していますが)、私たちが日常で「現実」として知覚しているのは本当の意味での現実ではない。
 それは、脳や神経系がフィルターのような役割を果たすことで多様で膨大な情報がカットされた一種、還元された世界である。
 だけどフィルターはときに機能不全を起こすことがある。
 あるいは、人工的に機能不全を起こすことができる。
 
 幻覚剤は、そうした機能不全を起こさせる1つの手段である。
 だからハクスリーによれば幻覚体験が見せるのは決して「幻覚」などではない。
 それこそが、ありのままの世界、還元されていない世界である。
 
 ここには、真の現実はむしろ幻覚の側にあるという転倒、素朴な「現実/幻想」理解の転倒が見られる。
 この転倒は、真価を見出す対象が「自己」か「世界」かの違いはあるものの、衝動的自己の説明に見られるのと同型であるように思う。
 この点で、衝動的自己の考え方とドラッグ文化の考え方は、たしかに共鳴している。
 
 
 
 とはいえターナーの説にはやはり疑問もある。
 
 列挙すると、
  ①なぜ制度と衝動だけなのか? 他の自己の在り方はないのか?
  ②制度と衝動は対極の関係にあるといえるのか?
  ③制度的自己が前景化していた時代など果たしてあったのだろうか?
  ④制度から衝動へのシフトは、単なる年齢的なものではないのだろうか?
  ⑤ターナーはこのシフトを不可逆と考えているのだろうか?
 などの疑問が浮かぶ。
 ②については若干の説明があるものの、ターナーの説の論拠は、全体としてやや希薄であると感じる。
 
 とくに気になるのは、制度的自己の方のリアリティである(③・④)。
 対抗文化が盛り上がり、衝動的自己のような自己理解が迫り出してくるのはターナーの目の前で起きてきたことだけに説明からもリアルさ伝わってくるし、また上述のようにして、当時のドラッグ文化と衝動的自己とを結びつけることもできる。
 だから衝動的自己はわかる。
 
 だが、制度的自己の方は、どうか。
 それは、その、衝動的自己という新しい感性と対比させたいがために後から用意された“仮想敵”のようなものではないのか。
 いつの時代も、若者の多くは衝動的自己に重心があるのではないかとも思えるし。
 
 
 というふうに疑問はいくつかあるけれど、それらを抱えつつ、さらに読み進めていきたいと思います(なんだそれ)。
 
 
 (つづく)