2013/05/06

「68年」が遺したもの part1


 「1968」は、厄介だ。


 「1968」について何か言おうとすると過小評価か過大評価かのいずれかになってしまうような気さえする。

 いや、こういう言い方自体、ある種、68年の特権化にも思える...。
 
 だがそれでもやはり、あの時代には良くも悪くも“何か”があったのだ、と言いたくなる。
 私のように、そのときまだ生まれていない人間でさえも。
 そして、その“何か”の一因が、単純に、絶対的な「若者」の数の多さにあったのだとしても。

 「1968」は、多くの研究者――とくに、当時まさに「若者」だった研究者――にとって、さまざまな意味でインフルーエンシャルだ。

  
 たとえば前々回言及した The Romantic Ethic and the Spirit of Modern Consumerism の Introduction で著者のコリン・キャンベルは、同書の着想の出発点に自らが学生時代に体験した「対抗文化」があることを書き留めている。
 (たしかクラウス・テーヴェライトも、うろ覚えだけど、『男たちの妄想』でそんなようなことを書いていたような...)
 
 人文社会科学系ばかりではない。
 まえにプロテスタンティズムの倫理と功利主義の精神 part3」の回でふれたように、それは、量子力学の発展にとってもクルーシャルな役割を果たした。

 「1968」が現在の私たちの生に影響を与えている。

 問題は、それをどう捉えるかだ。
 
 Jeremy Gilbert は、2008年の論文「After ’68: Narratives of the New Capitalism」で、この問題に取り組んでいる。
 New Formations 65: 34-53 に載っています(PDFはこちら)。

 「1968」の影響を、どう見るか?


 もちろん、それには、2つの見方がある。

 つまり功と罪、どちらをより重く見るかだ。
 
 一方には、その「負」の遺産を重視する見方があり、他方には、「正」の遺産を重視する見方がある(ギルバートがこういう表現を使っているわけではないが)。
 前者は、「1968」の叛乱の帰結を、その後の「個人主義」や「消費主義」の蔓延に結びつけ、ややシニカルに捉える。
 わりとよく目にする意見だ。
 後者はしかし、それでもなお、彼らの叛乱によって、決して十分とはいえないにせよ、たしかに達成されたものもあるはずだ、と希望を見る。
 
 当否はおくとして、ギルバートは、前者にあたるのがクリストファー・ラッシュであり、後者にあたるのがアントニオ・ネグリであるという。

 私個人は前者の見方に近いけど、後者の見方もわからないではない。


 ギルバートはいう。

 「2008年の資本主義と1968年の資本主義は、まったくの別物である。そしてその違いは、多くの点で、60年代後半のラディカルな要求によって予示されたものだ」、と(Gilbert 2008: 35)。

 つまり、「2008」と「1968」は、その資本主義の性質――次回、それを「精神」と呼ぶことになるだろう――において、断絶している。

 だが、「1968」の若者たちが前の世代に反抗し言祝いだ(たとえば)労働観が、「2008」に受け継がれている点においては、両者は地続きだともいえる。

 この「連続性」と「不連続性」。


 「1968」が厄介な、その大きな理由のひとつは、ここにあると思う。


 つづく。



※Kindle版、安いですね。