2013/12/11

リアルセルフ論 part3

 
 (つづき)
 
 得意の脱線癖を発揮しまして、今回は、Turnerの論文そのものではなく、Turnerの論文をもとにして書かれた論文について書きます。
 これ↓です。

  • Melissa M. Sloan, 2007, "The "Real Self" and Inauthenticity: The Importance of Self-Concept Anchorage for Emotional Experiences in the Workplace," Social Psychology Quarterly, 70(3): 305-318. (⇒ PDFはこちら
 読みやすい。
 
 
 著者Sloanの研究テーマのひとつは「感情労働」である。
 感情労働とは、職務上、感情管理が要求されるような労働形態を指す。
 
 たとえば私たちの社会ではファストフードやコンビニの店員は、苛立ちや不安を素朴に表わすことはできない。
 いや、できるけど、それは規範的でない。
 規範にそぐわない感情は表に出ないよう抑えつけねばならない。
 これが感情管理のひとつの姿である。
 
 彼・彼女は状況に合わせて感情をある限定的な範囲におさめるよう要請されている。
 そこで要請される管理水準は私的なコミュニケーションのそれよりも遥かに窮屈である。
 その窮屈さが度を過ぎれば、彼・彼女は精神的に疲弊してしまうだろう。
 
 こうしたことが注目されるようになった背景にはもちろん産業構造の変化、対人サービス労働の拡大がある。
 図式的にいうなら、かつての「産業社会」が労働者に「肉体」の酷使を求めたとすれば、こんにちの「消費社会」は「心」の酷使を求めている、というわけである。
 
 こうした問題を調査した先駆的かつ最も重要な研究成果が、A・R・ホックシールドの『管理される心』(原著1983年)である。
 以降、多くの研究がなされ、いまや感情労働研究(ないし感情社会学)はひとつの学問的なサブジャンルとして定着した感すらある。
 ホックシールドが同書で調査対象としたのは客室乗務員だったが、現在、他にはたとえば看護職や介護職、苦情処理なんかの職種も感情労働と見なされている
 ただ近年の研究により、サービス業かそうでないかは感情管理の程度にさほど影響を与えないともいわれている。
 
 
 なぜ感情労働が精神的な疲弊につながりうるかといえば、ひとつには、Sloanもいうように、それがしばしば労働者に〈ほんものじゃなさ〉(inauthenticity)の感覚を生むからだということができる。
 〈ほんものじゃなさ〉は今回の論文のキーワードである。
 
 職場で感じるイライラを押し殺しつくられる笑顔は、あくまで仮面、あくまで営業スマイルである。
 イライラが真正な感情なら、その笑顔は偽りであり、本物ではないと感じられる。
 とくに苛立ちや不安のようなネガティブな感情は、感情管理によって、表に出るよりも前に検閲されることになる。
 とはいえネガティブな感情を抑えつけ、外見上、笑顔で偽装するだけで事足りるなら、まだ楽かもしれない。
 感情と表情はそれほど容易に切り離せるものではないだろうから。
 であれば、本物ではないが場に相応しい感情を抱くこと、抱こうとすることもまた、感情管理に含まれてくる。
 これはおそらく、単に表情だけを取り繕う場合よりももっと心理的に負荷のかかることだろう。
 そして、そうした負荷の蓄積は深刻な健康被害をもたらしうるだろう。
 
 
 感情労働は、〈ほんものじゃなさ〉の感覚をつくりだし精神的な負担を生む。
 このことは実際、調査により明らかにされてきた。
 だが、他方で、感情管理がすべからく有害なんだと言い切ることもまたできない。
 Sloanによればそのことも調査により示されてきている。
 たしかに、想像してみるに、無用のトラブルを避けるのに感情管理は役に立つはずだし上手く対処できればそれはそれで達成感や充実感につながることもあるだろう。
 
 だが、もう1点、従来の“素朴な”(といっていいかわからないが)感情労働論には問題に思える点がある。
 Sloanが注意を払うのもこの点である。
 それは、感情労働論には、ある暗黙の前提が、すなわち管理された感情を「ほんものじゃない」とする前提が入り込んでいるという点である。
 
 その前提への疑問はたとえばこう表現できる。
 仕事中の自分にこそauthenticityを感じる人もいるのではないか?
 そのようなタイプの人とそうでない人とでは、感情管理のもつ意味合いが違ってくるのではないか?
 
 Sloanはこの問題を考えるのにTurnerの枠組みが有効なのではないか考えた。
 なぜならば(もうおわかりだと思うが)、Turnerの枠組みとは、まさに、本当の自己をどこに置くのかというauthenticityをめぐって設計されたものだったからである。
 Turnerの「自己概念の拠点」(self-concept anchorage)を、感情管理と〈ほんものじゃなさ〉との間ではたらく一種の「仲介役」として捉えること、これがこの論文の核となるアイディアである
 
 管理された感情を「ほんものじゃない」とする“素朴な”感情労働論が前提とするのは、Turnerのいう「衝動志向」の労働者像である。
 「衝動」に類別されるような苛立ちや不安、激情や欲情をコントロールしなければならない感情労働に〈ほんものじゃなさ〉を感じるのだとすれば、彼・彼女のリアルセルフは、たしかに衝動志向といえる。
 だが、規範や役割に適応している自分にこそリアルセルフを見出す「制度志向」の労働者にとってはどうか。
 彼・彼女にとって仕事中の感情管理は〈ほんものじゃなさ〉の感覚にはつながらないのではないか。
 制度志向の労働者にとって感情管理は果たしてどのような意味をもつのか。
  
 Sloanはそれを2004年のアンケート調査にもとづき検証している。
 
 
 結果は、しかし、Sloanの予想を裏切るものであった。
 
 
 (つづく)
 
 
 

  
 
 

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