(つづき)
ひきつづき Abraham, Gary A., 1983, "The Protestant Ethic and the Spirit of Utilitarianism: The Case of EST," Theory and Society 12(6): 739-773. について。
著者のエイブラハムがこの論文でまず問題にしているのは、est なども含めた新宗教(運動)の位置づけである。
よく知られるように、20世紀半ばのアメリカでは大小さまざまな(疑似)宗教団体が生まれた。
エイブラハムはそこへと至る思想的な展開をロバート・ベラーの論考(Bellah 1976)に従って次のように整理する。
最初に①「聖書主義」、次いでその否定としての②「功利主義」、そしてそれら両方の否定としての③「対抗文化思想」、といった具合に。
70年代に対抗文化が失速し、代わりにその理想を受け継いだのが、ベラーのいうところの「新しい宗教意識」(new religious consciousness)だった。
けどこれはあくまで単純化された見取り図にすぎない。
エイブラハムは新宗教を「功利主義」の否定として(のみ)描くべきではないと考える。
est などのヒューマン・ポテンシャル運動系のグループには明らかに功利主義的な傾向が見られるからだ。
ベラーもこの点を指摘してはいる。
だが、ベラーは「功利主義」の語の扱いがやや粗雑だ、というのがエイブラハムの意見だ。
端的にいえばベラーは、「道徳性」(morality)と「功利主義」を対立的に描きすぎている、と。
エイブラハムの主張はこうである。
「古典的な(社会)功利主義」は、しばしば道徳的な抑制や宗教的な禁欲と対立する、ただの利己主義と考えられがちだが、それは誤解である。
「古典的な功利主義」はむしろ利己的な個人主義とは相容れない。
(そしてプロテスタンティズムと親和的だ。)
しかし、(ややこしいのだが)同じ功利主義でも、est に見られるような功利主義は、古典的なそれではない、とエイブラハムはいう。
est やそれに類するグループの「功利的」な要素は、[引用者注:古典的なそれとは]まったく別の系列、プロテスタントの倫理からはじまる発展の系列に由来する。(Abraham 1983: 746)その est に見られるような功利主義、プロテスタンティズムに連なる功利主義を、エイブラハムは「衛生功利主義」と呼ぶ。
この論考が興味深いと思えるのは、そもそも題材に関心があるというのも大きいけれど、功利主義にしても、プロテスタンティズムにしても、古くからある主義や思想が、そのままの形ではなく、かといってまったく別の形でもなく、部分的に形を変えて継承され、現代文化のなかに息づいている、と著者のエイブラハムが考えている点である。
どの部分が維持され、またどの部分が改変されているのか、その取捨選択の実情をエイブラハムは詳述しようとしているように思う(たぶん)。
そこがおもしろい。
次回は est について書くことになりそう。
つづく。