唐突すぎるが、まえに「est」について、こんなことを書いた。
話はやや逸れるが、この種の「セミナー」は、一般にヒューマン・ポテンシャル運動(そのものか、その派生)として捉えられる。
これは、別に間違っていない。
間違っていないが、しかし、個人的には釈然としない気持ちもないではない。
両者のあいだには差異があり、その差異を追究することが(少なくとも自分の研究にとって)重要である気が前から強くしているからだ。
でも、これについてはまた今度。
(もとのエントリーはこちら ⇒ プロテスタンティズムの倫理と功利主義の精神 part3)
最近Peter Marinのエッセイ(↓)を読んでいたら、このことを考えるきっかけになってくれそうなことが書いてあった。
だから今回はそれについてちょっと書いてみたい。
Marin, Peter, 1975, "The New Narcissism," Harper's Magazine (Oct., 1975), Vol. 251(1505): 45-56.
Marinの小論の意図は、とてもはっきりしている。
estに象徴される当時流行のセラピー文化の独善的・現状追認的な姿勢を糾弾することである。
彼は、「ソフト・ファシズム」という言葉まで使って強く非難している。
注目したいのは、Marinがestと「古いセラピー」とを対比し、両者の異同について述べている箇所である。
彼のいう「古いセラピー」とは、「ゲシュタルト・セラピー、アブラハム・マズローの自己実現、ロジャーズ派のエンカウンター・グループ」のことである。
(マズローの自己実現をセラピーと呼んでいいのかはアレですが・・・)
とくに明示されているわけではないが、Marinは旧セラピーと新セラピーはどちらもヒューマン・ポテンシャル運動と呼べる、と考えているように思う。
ごくノーマルな理解だし。
そして、おそらく、旧セラピーの方が当該運動の本体に近いと考えてもいる(私も同意見である)。
ごくノーマルな理解だし。
そして、おそらく、旧セラピーの方が当該運動の本体に近いと考えてもいる(私も同意見である)。
このことは、たとえば、「それ[est]は、多くの点で、過去10年間の全ヒューマン・ポテンシャル運動の論理的な延長線上にある」(Marin 1975: 47)と述べている点にも現われている。
たとえば、これと異なる見解をもつと思われるのが、George D. Chryssidesである。Chryssidesの『Exploring New Religions (Issues in Contemporary Religion)』(1999年)という本には、まさに「The Human Potential Movement」と題された章(第8章)がある。
Chryssidesはその章で「サイエントロジー」「超越瞑想」「est」の3つを引き合いに出してヒューマン・ポテンシャル運動について考察している。
これは明らかに、いましがた述べたようなヒューマン・ポテンシャル運動の見方と異なっている。
彼は、Marinのいう旧セラピーに――というかエサレン研究所界隈に――ほとんど関心を払っていない。
Chryssidesの文章の目的は、「サイエントロジー」「超越瞑想」「est」という3つの団体、およびそれらの実践が果たして“宗教(的)”なのかどうかを検証することにある。
このラインナップでそれを試みようとする意図・意義は理解できる。
だけど、(1) サイエントロジーと超越瞑想――とりわけ前者――がヒューマン・ポテンシャル運動に含まれるのかどうかは議論の余地があるだろうし、仮に含まれるとしても、(2) 上記の3つをあたかもヒューマン・ポテンシャル運動の代表事例のように扱うことは、多いに疑問がある。
ただ、Chryssidesを擁護するなら、彼は、(Heelasの「self-religions」ではなく)Tiptonの「ヒューマン・ポテンシャル運動」の用語をここでは採用する、という内容のことをいっているので、もしかしたら上記のラインナップはTiptonの定義にもとづくものかもしれない。
(彼の参照するTiptonの文献が手元にないので確かめられず・・・)
ま、Chryssidesへの疑問は措いておこう。
いずれにせよ気になっているのは、estを転換点としてヒューマン・ポテンシャル運動に何らかの変化を見出せるのか、見出せるとすればそれはどのような点においてか、ということである。
Marinはestのどこに新しさを見たか?
端的にいえば、それは歴史や道徳への態度である。
古いセラピーは道徳的・歴史的な事柄をたんに無視するだけなのだが、新しいセラピーはそれらを壊したり置き換えたりする。新しいセラピーは、自己を護ったり変化させたりする方法であるばかりか、他者の必要性、および他者に対するその人自身の責任の必要性を判断する方法、つまりは歴史を定義し、道徳性を決定する1つの方法になっている。(Marin 1975: 47)つまり新セラピーの思想は、歴史や道徳、もっと抽象化すれば大いなる〈他者〉に、本来負うべきはずのあらゆる責任の放棄を促すものである、とMarinはいう。
Marinによれば、セミナー経験者の一部には、次のような考えを述べる(ようになった?)人もいるという。
差別や貧困で苦しむ人は、じつは心の奥底では、そうして苦しむことを望んでいたのであり、彼・彼女の現在の窮状は彼・彼女の望んだ結果なのだ、と。
(なぜなら意志の力は巨大だから――これは現代の自己啓発本にもよく見られるロジックだ。)
だから、差別や貧困問題に何ら責任や罪の意識を感じる必要などないのだ、と。
新しいセラピーの教義は、こうしたロジックによって、差別や貧困などの(国際)社会的な問題を、自分とはまったく関係のないものとして見なかったことにするよういざなう。
いや、たんに目を逸らすだけならまだしも、差別や貧困の責任があたかも当事者だけにあるかのように言い放ち、傷口に塩を塗りつけているとすらいえる。
他方、かつてのセラピーはそんなことはなかったとMarinはいう。
それらに明確な“害”はなく、あったとしても許される程度だった、と。
旧セラピーは問題を認識しても、とくに何もしない。
新セラピーは問題を認識したら、それを問題ではないと考え直すよう教える。
これが、Marinの呈示する新旧のセラピーの違いである。
この対比はどうだろうか。
うーむ・・・。
首をかしげるほどではないが、肯けもしない、そんな感じでしょうか。
そんで、ここからさらに話を展開させて考えを深めていこうと思ってたのだけど、ちょっとどう展開させていったらいいかわからなくなってしまった。
まあ、Marinにしても、この対比の議論に言葉を尽しているわけではないし、そもそもエッセイの目的が対比にあるわけではないので、あくまでそういう議論として受け止めなければならない。
でも、これから考えるヒントにはなりそうだ。
(なんという終わり方)