リアルセルフ論に飽きたので(!!)、今回は、ロイ・ウォリスのテキスト(↓)のメモです。
Wallis, Roy, 1979, "Varieties of psychosalvation," New Society, 50: 649-651.
ただのメモ。
このテキストは、エスト、サイエントロジー、シナノン、超越瞑想など自己啓発系セラピーのグループに共通する特徴を考察したものである。
ウォリスはそれらを「魂の救済」(psychosalvation)運動と総称する。
それは、「25年前かそこらに出現した、個人心理学的ないしサイコスピリチュアルな成長や『自己実現』のための理論・テクニック・環境を提供する、宗教的・世俗的な運動および集団」(Wallis 1979: 649)と一般化されている。
そうした運動・集団に共通する特徴はなにか。
ウォリスは次の諸点を挙げる(以下のように項目を立ててはいないが)。
a) 「完全になり得る」(perfectible)という考え方
――私たちは潜在能力を秘めており、「魂の救済」運動を通じて、それを十全に(そして無限に)発揮することができる。
b) 個人主義・自己責任
――能力発揮のためには、社会ではなく個人が変わらなければならない。また翻って、現在の困難の原因は社会ではなく個人にある。
c) 世俗的な価値の追究
――「魂の救済」運動は、精神的な成長だけでなく現世的な利得をもたらす(この点で、「魂の救済」運動は世俗の価値・規範を概ね受け入れている)。
d) 現在の強調
――実際の感情や経験を重要視する。
e) 個人的な問題への関心の低さ(=精神分析との相違点・その1)
――「魂の救済」運動はいくつかの点で精神分析に似ている。が、そのひと個人(の生い立ちや生育環境)の問題ではなく、その問題をどう捉えるかに関心を払う点で異なっている。
f) インスタントであること(=精神分析との相違点・その2)
――また、精神分析よりもはるかにインスタントな性格をもつ。
g) 民主的性格
――トレーナー・セラピスト・リーダーとメンバーの階層的な差は小さい。トレーナーやリーダーはかつての参加者である場合が多く、そうなるための教育的ハードルも(精神分析に比べれば)低い。
h) 商品化
――運動のもつアイディア、スキル、テクニックは販売可能なものとしてパッケージ化されている。
また、ウォリスは「魂の救済」運動の教義やエートスの核となるアイディアとして、以下の4点を指摘する。
1) 達成――物心両面にわたる成功の約束
2) 順応――過去でも未来でもなく現在・現実へのフォーカス(エストに顕著)
3) 解放――社会的な拘束からの解放、「本当の自分」の表出(エンカウンターに顕著)
4) 親密さ――コミュニティの形成
なぜこの4点が強調されるかといえば、ウォリスによれば、それは、それらがまさに「先進資本主義社会」の性質を反映しているからである。
より正確には、それらを犠牲に成り立つ社会こそが「先進資本主義社会」であると。
「先進資本主義社会」は、「成功」の責を個人の能力に負わせるがゆえに、個人にさまざまな犠牲を強いる。
現在の欲望を犠牲にしなければならないし、「本当の自分」を押し殺す必要があるし、共同体的・地縁的な紐帯は足枷と見なされる。
伝統的には宗教がそうした側面をカバーする役割を担ってきたが、もはや機能不全に陥っている。
それゆえ、それらを提供する(と謳う)「魂の救済」運動に大きな需要が生まれるのだとウォリスは分析する。
以上、メモ終わり。
ウォリスが「魂の救済」運動と呼ぶような運動・集団についてはずっと気になっている。
それらを共通性において見ようという試みは良いと思う。
ウォリスの指摘した特徴を、今度は新宗教運動やニューエイジ運動と比較し、「魂の救済」運動の特殊性を(あれば)探ってみたい気もする。
ただ、その共通のラベルを、なぜ他ならぬ「psychosalvation」という語にしたのかは特別ふれられておらず、それが最後まで疑問だった。
(つづき)
結果は、予想を裏切るものだった。
衝動志向の労働者よりも、制度志向の労働者の方が、感情管理と〈ほんものじゃなさ〉の感覚を関連づけていることが明らかになったからだ。
アンケート調査の結果として、まず、感情管理と〈ほんものじゃなさ〉の感覚との間には相関が見られることが確かめられた。
やはり感情労働は一定の〈ほんものじゃなさ〉の感覚をもたらす、と。
これは従来の指摘通りである。
加えて、その両者の関係が、Turnerの「自己概念の拠点」に、すなわちその人がリアルセルフをどこに置くかによって左右されることも示された。
つまりTurnerのリアルセルフ論は感情労働の解明に寄与しうる、と。
これもSloanの目論見通りである。
ここまではいい。
問題はその左右のされ方である。
結果は、衝動志向よりも制度志向の人の方が〈ほんものじゃなさ〉と強い関連性をもつことを語っている。
なぜ、状況や役割に応じて感情が統制されるときにこそ自己の本物らしさを見出す制度志向の人たちが、仕事中に〈ほんものじゃなさ〉をより感じるのだろうか。
仕事をしている自分こそが本当の自分ではなかったのか。
この矛盾を、Sloanは、仕事中に経験する感情の中身の点から説明しようとする。
衝動志向の人が感情管理を通じた〈ほんものじゃなさ〉をあまり感じないのはなぜか?
Sloanはこう考える。
それは彼・彼女らがそもそも、勤務中の自分に本物らしさを感じ(ることを期待し)ていないからだ、と。
ゆえに相対的に、感情管理のもつ意味が小さく(meaningfulでなく)なるのだろう、と。
制度志向の人たちは、仕事をしているときの自分に本物らしさを感じる。
だが、そのときの感情の中身をSloanは問題にする。
つまり、制度志向の人たちが本物らしさを感じるのは、仕事中でも、とくにポジティブな感情(例:幸せ)を経験しているときのはずだ、と。
さすがにネガティブな感情(例:苛立ちや不安)を経験するときには〈ほんものじゃなさ〉を感じるに違いない。
感情管理はそういうときにこそ必要になる。
衝動志向の人にとっては、仕事中にポジティブな感情を経験することなどはじめから期待されない。
ネガティブな感情を経験することも想定内だ。
ことさらマイナスでもない。
むしろ仕事中にネガティブな感情を経験することは、衝動志向の自己の論理に照らして一貫性がある。
だから〈ほんものじゃなさ〉を感じにくい、とSloanは考える。
他方、制度志向の人にとっては、ネガティブな感情の経験は大きなマイナスを意味するだろう。
仕事中のポジティブな感情の経験がauthenticityと強く結びついているからだ。
陽が強ければ、陰もまた濃くなるというわけだ。
Sloanはこう推論し、実際、追加分析の結果はこの見方を支持している。
以上のことはまた、こう一般化して考えることができる。
〈ほんものじゃなさ〉を感じるか否かは、感情管理の状況よりも先に、経験する感情の中身(ここではポジティブかネガティブか)に左右されるのだ、と。
[追加分析の]以上の結果は次のことを示している。勤務中に経験される非真正性がどの程度になるかは、たしかに自己概念の拠点に依存する。が、(・・・)自己概念の志向性が問題となるのは、感情管理の評価よりも、まずは感情経験の解釈においてである。(Sloan 2007: 315)
こうしてSloanは、仕事中の〈ほんものじゃなさ〉の解明にとって自己概念の拠点、ならびに感情経験の意味というファクターが重要であることを示した。
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以上、Sloanの論文の流れをたどってきた。
この論文は、感情労働とそこで経験される〈ほんものじゃなさ〉の感覚の関係を解明することが本筋であって、Turnerの枠組みそれ自体の検討を目指したものではない。
けれど、Turnerを参照する際には、経験される感情の種類や意味についても考慮する必要があるということを示している点で重要に思える。
たとえば「制度的な場面において、とくにどのような感情を経験するときにリアルセルフを感じるのか」とか「どのような種類の衝動を制限されたときリアルセルフではないと感じるのか」とか。
上記の、予想外の結果に対するSloanの説明にはどことなくすっきりしない面もありますが、そもそもデータの読み取り方にあんまり自信がもてないし、話をTurnerに戻したいので、その点は掘り下げないことにします。
次回は、Turnerに戻るか、Sloanが参照するGordonの論文について書く予定です。
(つづく)