2013/09/10

『すばらしい新世界』と『島』 part1

 
 4ヶ月放置ののち、ぬるっと再開。
 
 M. H. N. Schermer の2007年の論文 "Brave New World versus Island: Utopian and Dystopian Views on Psychopharmacology" (Medicine, Health Care and Philosophy 10: 119–128) について。
 いわゆるニューロエシックス分野の論文で、向精神薬(たとえば抗うつ剤)の「コスメティック」な利用が投げ掛ける倫理的な問題について議論している。
 
 こちらで読めます。
  
 
 
 この論文で著者の Schermer は、イギリス出身の作家オルダス・ハクスリーの2つの小説の比較を試みている。
 1つは、代表作『すばらしい新世界』(Brave New World, 1932)。
 これはバイオエシックスやニューロエシックスの議論、エンハンスメントをめぐる議論のなかでよく引き合いに出される、定番の作品である。
 
 Schermer のアイディアは、それを、それとはまた別の作品、ハクスリー最晩年の、『島』(Island, 1962)と対比させようとするものである。
 こちらは『新世界』よりは格段に知名度は下がり、上述のような議論においてもめったに取りあげられることはない。
 (ちなみに関係ないけど、『島』の表紙はとても可愛い。)
 
 なぜ『新世界』と『島』を対比させようというのか?

 それは、両小説にそれぞれ対照的なかたちで、印象深い薬物が登場するからである。
 
 『新世界』には、「ソーマ」(soma)と呼ばれる薬物が登場する。

 それは、副作用なく人びとに活力と気晴らしを与える万能薬である。
 
 よく知られるように『新世界』は、徹底的な管理社会、一種のディストピアを描いている。
 これに対して『島』で描かれるのは、逆に、ユートピア的な共同体である。
 Schermer がいうように、それは、『新世界』の「正の鏡像」である。
 
 『島』の舞台は、インド洋上の小島「パラ」(Pala)である。

 登場人物や設定などについては割愛するが、パラの共同体にとって重要な薬物は「モクシャ薬」(moksha-medicine)と呼ばれる。
 それは啓示や霊感を与える作用をもつ。
 人びとは、それがもたらす神秘体験を通じて「現実」や自分自身の「本当」の姿を悟る。
 
 人間性やパーソナリティを剥奪するかのようなテクノロジカルな統制の道具としてのソーマとは異なり、モクシャ薬は、「真の」人間性・パーソナリティの獲得に役立つものとして描かれる。
 Schermer の表現を借りれば、前者が「alienation」を象徴するのに対し、後者は「revelation」を象徴する。

 ソーマもモクシャ薬もどちらもその「社会」(?)の維持にとって欠かせないアイテムである。

 この点に違いはない。
 だが、維持の対象がディストピアであるかユートピアであるかに大きな違いがある。
 
 ◆

 
 【『新世界』・ディストピア・ソーマ】対【『島』・ユートピア・モクシャ薬】という際立った対立を、Schermer は、ニューロエシックスでおなじみの倫理的論争に重ね合わせる。
  
 キーワードは「真正性」(authenticity)である。
 
 すでに述べたように、『新世界』は、エンハンスメント関連の議論のなかでよく引き合いに出される。
 それは、現代のバイオテクノロジーの在り様(とそれが提起する問題)の一部が、見事に『新世界』に活写されているからである。

 そして、多くの論者が、現代世界は、まさしく『新世界』的な「ディストピア」に近づきつつあるのだという不安や危惧を表明する文脈において、この小説に言及してきた。

 
 たとえばフランシス・フクヤマは『人間の終わり』(Our Posthuman Future)の冒頭でこう述べている。
本書の目的は、ハクスリーの『すばらしい新世界』が正しいと論じること、現代バイオテクノロジーが重要な脅威となるのは、それが人間の自然本性を変え、我々が歴史上『ポストヒューマン』の段階に入るかもしれないからだ、と論じることである。(Fukuyama 2002=2002: 9)
 彼がこの本で強く訴えようとしているのは、バイオテクノロジーの規制である。
 
 薬でエンハンスメントされた能力など「人間的」な能力とはいえない。
 それは、人工的な、造られた、自然でない、偽の能力に過ぎない。
 ほら、『新世界』で描かれているように。
 というわけだ。 
 
 だが、と Schermer はいう。

 
 その薬の作用による状態が「偽物の」「非真正な」状態なのだとても、では、人間として「本物の」「真正な」状態とは一体どのような状態だというのか?
 何もしない「自然」な状態がそうなのか?
 フクヤマのいう「人間の自然本性」は、何もしないことを意味するのか?
 
 Schermer はいちいち分けたりしていないが、ここには2つ、問題があるように思う。
 1つは、人間として真正な状態、あるいは本当の自分とは、果たしてどのような状態を指すのかという問題。
 もう1つは、真正な状態や本当の自分へと至る経路・手段に、正しい/正しくないはあるのかという問題である。
 
 前者の問いに正面から答えることはできない。
 いや、答えることができない、ということをまず確認すべきである。
 
 Schermer は次のことを指摘する。
 本当の自分とはどこかに存在している静的なものではなくて、 「なる」(becoming)という動的なプロセスにおいて生じるものである、
 この点で「自己発見」は「自己形成」と同内容である。 
 
 では、自己形成の手段に正否はあるのか?
 たとえば「正しくない」とされる薬物によって形成された人間は「本当」の人間ではないのだろうか?
 
 Schermer はそんなことはないと答える。
 
 現代人の自己形成には、好むと好まざるとに関わらず、さまざまなテクノロジーが与っている。
 アーミッシュのような人びともいるにはいるが、多くの人びとにとって、テレビやインターネットなどは(もしかしたら冷蔵庫や自動車だって)大なり小なり自己形成に関わっているはずだ。
 しかし、そのうち、どのテクノロジーが「自然」で「真っ当」であり、どのテクノロジーが「不自然」で「紛い物」などと誰がいえるのだろうか?
 
 
たとえ「本物でない」とされる経験からも人は学び、成長しうることがある。
 (これこそ『宗教的経験の諸相』のテーマではないか。)
 『島』はそれを描いていると読める。
 
 『新世界』に比べたら圧倒的に、『島』はこれまで言及されてこなかった。
 Schermer は、まさしくこの点に、エンハンスメントの倫理的議論における、ある種、構造的な視点の欠落が、つまり、「本物でない」とされる経験からも人は学び成長しうることがあるという視点の欠落が現われていると指摘する。
 
 
 今回はここまで。

 次回(があれば)、自分なりの疑問点をまとめてみたい。
 あと、美容整形の問題として考えなおしてみると、またおもしろいかもしれないなと思いました。
 
 

 
 
 
 

2013/05/06

「68年」が遺したもの part1


 「1968」は、厄介だ。


 「1968」について何か言おうとすると過小評価か過大評価かのいずれかになってしまうような気さえする。

 いや、こういう言い方自体、ある種、68年の特権化にも思える...。
 
 だがそれでもやはり、あの時代には良くも悪くも“何か”があったのだ、と言いたくなる。
 私のように、そのときまだ生まれていない人間でさえも。
 そして、その“何か”の一因が、単純に、絶対的な「若者」の数の多さにあったのだとしても。

 「1968」は、多くの研究者――とくに、当時まさに「若者」だった研究者――にとって、さまざまな意味でインフルーエンシャルだ。

  
 たとえば前々回言及した The Romantic Ethic and the Spirit of Modern Consumerism の Introduction で著者のコリン・キャンベルは、同書の着想の出発点に自らが学生時代に体験した「対抗文化」があることを書き留めている。
 (たしかクラウス・テーヴェライトも、うろ覚えだけど、『男たちの妄想』でそんなようなことを書いていたような...)
 
 人文社会科学系ばかりではない。
 まえにプロテスタンティズムの倫理と功利主義の精神 part3」の回でふれたように、それは、量子力学の発展にとってもクルーシャルな役割を果たした。

 「1968」が現在の私たちの生に影響を与えている。

 問題は、それをどう捉えるかだ。
 
 Jeremy Gilbert は、2008年の論文「After ’68: Narratives of the New Capitalism」で、この問題に取り組んでいる。
 New Formations 65: 34-53 に載っています(PDFはこちら)。

 「1968」の影響を、どう見るか?


 もちろん、それには、2つの見方がある。

 つまり功と罪、どちらをより重く見るかだ。
 
 一方には、その「負」の遺産を重視する見方があり、他方には、「正」の遺産を重視する見方がある(ギルバートがこういう表現を使っているわけではないが)。
 前者は、「1968」の叛乱の帰結を、その後の「個人主義」や「消費主義」の蔓延に結びつけ、ややシニカルに捉える。
 わりとよく目にする意見だ。
 後者はしかし、それでもなお、彼らの叛乱によって、決して十分とはいえないにせよ、たしかに達成されたものもあるはずだ、と希望を見る。
 
 当否はおくとして、ギルバートは、前者にあたるのがクリストファー・ラッシュであり、後者にあたるのがアントニオ・ネグリであるという。

 私個人は前者の見方に近いけど、後者の見方もわからないではない。


 ギルバートはいう。

 「2008年の資本主義と1968年の資本主義は、まったくの別物である。そしてその違いは、多くの点で、60年代後半のラディカルな要求によって予示されたものだ」、と(Gilbert 2008: 35)。

 つまり、「2008」と「1968」は、その資本主義の性質――次回、それを「精神」と呼ぶことになるだろう――において、断絶している。

 だが、「1968」の若者たちが前の世代に反抗し言祝いだ(たとえば)労働観が、「2008」に受け継がれている点においては、両者は地続きだともいえる。

 この「連続性」と「不連続性」。


 「1968」が厄介な、その大きな理由のひとつは、ここにあると思う。


 つづく。



※Kindle版、安いですね。